おかえし
「へぇー。先生でも出張なんてあるんですね」 放課後。 国語科準備室にやって来た新八が、恐らくそれが本来の目的だろう日誌を小脇に抱えたままの、開口一番。 「はぁ?」 なんの前置きも無い話題がなんの事だか理解できるはずもなく、こちらとしてもそんな声が出る。 「だって、コレしゅっちょー≠チて、出張のことですよね?」 新八が指差した先には壁のカレンダー。 「あー。そーいやなんか書いたな。うわ、メンドくせー。せっかく忘れてたのに思い出しちまったよ。考えただけでメンドくせー。どーしてくれんだ、このメンドくささ」 「いや、僕のせいにしないで下さいよ。むしろ思い出させてあげたんだから感謝して下さい」 足を放り出した机の隅に日誌を置きながら新八が呆れ声を返してくる。 「ていうか何するんですか?先生の出張って」 「なんだっけ。なんか、研修?」 「研修?」 「なんかー、集まってー、なんやかんやしてー、ハイこれからも教師がんばりましょーみてぇにアレしてくんだとよ」 「いえ、さっぱりわかりません」 「知らねーよ。校長が他に行ける奴いねーから暇ならお前行けとか勝手に決めやがったんだからよ。冗談じゃねーよ。電車で2時間半って。研修後に交流会で情報交換とか言ってやがるし。何時に帰ってこれんの、俺」 そうだ。だんだん思い出してきた。そしてだんだん腹が立ってきた。 あのクソ校長に呼び出されて「ファッキン参加しろ」と命じられたのが1ヶ月前。 何が悲しくて貴重な土曜日を潰されにゃならねーのよ。 最終的には、30分に渡る交渉の末、校長から「出張手当出すから」という一言を引き出せた時点で断固拒否体勢を崩してしまったわけだが。 「でも、そしたらちゃん、がっかりしてませんでした?」 不意に新八の口から出てきた、ここにいねー奴の名前に、もう一度「はぁ?」と言ってしまう。 「なんでだよ」 「えー、だってせっかくのホワイトデーじゃないですか」 …。 ホワイトデー? 「え?出張っていつ?つーかホワイトデーっていつ?」 立ち上がり、壁のカレンダーに顔を寄せながら尋ねると、今度は新八が「は?」という声を出した。 「え?だから14日ですよ。どっちも。自分で書いたんでしょ、コレ」 新八が示した場所を見ると、たしかに。 3月14日土曜日のマスには黒マジックでしゅっちょー≠フ文字。 そしてその下にはカレンダーの印刷文字で小さくW.D≠ニ書かれていた。 「書いてるじゃないスか。W.D≠チて」 「ああ、コレ、ホワイトデーのことなんだ。渡鬼DVD発売日≠フ略だと思ってた」 「なんでカレンダーが渡鬼≠フ告知?!そんな国民的な日なの?!DVD発売!」 …ああ、そう。 ホワイトデーね。言われてみればそーだっけね、そーいや。 いや、忘れてねーけど。 知ってたけど。 ただちょっと、一瞬のうっかり的な? ほら、人は忘れることで前に歩いていける生き物だから。いや、だから忘れてねーんだけど。 横にいる新八が軽く吹き出すのが聞こえて我に返る。 「んだ、コラ」 「いえ。先生でも『やべっ』みたいな顔するんですね」 ニヤニヤと何が楽しいんだかイラつく笑い顔で俺を見る新八。 「いや、全〜然ヤバくねーし。つーか忘れてたとかねーし」 答えると同じ表情のまま「へぇ〜」と更にカンに障る反応が返ってきたので、今度こそその後頭部に1発平手を入れておいた。 その時。 コツコツと小さなノック音。 「あー」と声で返せば、建て付け悪い戸が慣れた様子で引き開けられる。 入ってきたのは案の定、渦中の人物。 珍しく先客がいることに少し意外そうな顔をして、並んで立つ俺と新八を交互に見上げる。 そして、 「2人だけで何の話?混ぜて混ぜて」 と、笑顔で傍に歩み寄ってきた。 「聞いてよ、ちゃん。銀八先生、出張でさぁ…」 先程の1発の仕返しのつもりか。 ニヤリと悪どい笑みを浮かべて新八が俺を見ながら口を開く。 その絵に描いたようなわざとらしさは、殴って構わねーってことだろ。 そんな判断で、かわい気のねーメガネの脳天にもう1発。 「イタタ。何すんですか」 「るせー。新八のくせにしゃしゃり出てくんじゃねーよ。おめーは新八らしく教室の隅でジミジミ練り消しでも作ってりゃいーんだよ」 「何?!ジミジミって!作んねーよ!今時練り消しなんか!」 黙って見ていたが、「ああ」と思い出したように声を上げた。 「そっか。もう来週だね、出張」 「あ?」 「はい?」 あっさりと飛び出したの一言を聞き返したのは俺だけじゃない。新八も。 「俺、出張あるってお前に話したっけ?」 「ううん。でも、だいぶ前からココに書いてあったよ?」 は、何を今さらと言いたげな顔で、壁のカレンダーを指差した。 そらそーか。 滅多にこの部屋に来ることの無い新八が気付いたのだ。 しょっちゅうココに入り浸っているコイツが、カレンダーの文字に気付くのは当然っちゃあ当然。 「いや、ホラ、ちゃん。こればっかりは、あの、仕方ないよね?仕事なんだし。先生も決して忘れてたわけじゃ…ねぇ?先生?」 さすがにマズイと思ったのか、新八が急にフォローに回り出した。 いや、やめてくんない。んな掌返したような態度取られると、そんなにヤバイ事態?とこっちも何だか焦るじゃねーか。 「いや、そりゃお前、出張さえ無きゃビッグプロジェクト計画してあったのによォ。いや〜出張さえ無きゃな〜。いやホラ、忘れてたとかじゃねーし。忘れてたから既に給料パチンコで使い切っちまったとかじゃねーし。あくまで出張だから。仕事だからね、コレ」 「…いや、先生。色んな事自分でダダ漏れにしてますよ。事態を悪化させてますよ」 「え?マジで?」 「あー…ちゃん、先生はホラ、お返しは給料出たら倍返しにするつもりなんだよ。きっと。ですよね?先生」 「あー、そうそう。ソレソレ。なんかそんな感じ」 妙な空気で目を泳がせる野郎2人をしばし不思議そうに眺めていた。 微かに首を傾げると、 「お返し?」 と、尋ね返してきた。 「え、だって…ホワイトデーでしょ?14日って」 新八の言葉に、ようやく事態が飲み込めたらしいは「えっ」と声を上げる。 「そうだっけ」 「そうだっけ?何?ちゃんも忘れてたの?アンタらカップルって何?」 は改めてカレンダーの日付を指で追いながら、ほんとだ、と呑気に笑う。 「…女子は大概、お返し何かなー、って楽しみにしてる日だと思ってた」 その様子を見ながらつぶやく新八の意見、ごもっとも。 「だってお返しなんて。これ以上もらったら、もらい過ぎでバチが当たる気がするし…」 そんな新八に真顔で答える。 ていうか既にもらい過ぎかな、とか一人眉間にシワを寄せてブツブツつぶやく台詞に引っ掛かりを感じて、つい横から口が出た。 「…もらい過ぎって、俺なんかお前にやったっけ?」 「一緒にいてもらってるよ?」 「…」 「…」 あっさりと返された言葉に、男2人、同時に沈黙。 続いて新八の呆れたような溜息が耳に届く。 まったくコイツは。 当たり前のように。 なんでもないことのように。 んな、とんでもねー台詞で奇襲を仕掛けてくるわけだ。いつだって。 「…新八ィ。空気読め。そして即行動に移せ」 隣に声を掛けると、 「…ハイ、スイマセン。お邪魔して。ていうか、ごちそうさまでした」 と、もう一つ溜息を加えながらの返事。 やってられませんよ、ホント。バカップル。 捨て台詞と共に準備室の戸を開け、新八の背中は廊下へと消えた。 「あれ?新八君帰っちゃうの?」 その背を見送り首を傾げるの腕を引いて。 とりあえず、その額に唇を寄せた。 驚いたように目を丸くし、俺を見上げる。 その髪を指で梳いてツラを眺めながら、 「つーか俺ァ忘れてたわけじゃないけどね」 と、付け足すと、 「そんなの忘れちゃう方が先生らしい」 とか、幸せそーに笑いやがった。 ホント、コイツは。 どこまで俺がいいわけよ。 そうして、多少の罪悪感と共に、俺をらしくねー行動に走らせるわけだ。結局は。 3月14日。 世の中の男どもは、みんなマジメに覚えてんだろーからマメなこって。 今まで生きてきて、マトモに覚えてた記憶なんざ俺にはねーっつーのに。 それを今頃このトシになって、もう間違いなく忘れねーだろうと思わしちまうんだから。 たいしたもんだよ。おめーはほんとに。 おかえしのおかえし |