テスト前
「銀八先生。テスト日程って、いつ発表になるんですか」 帰りのショートホームルーム。 いつも通り「ハイ、今日一日問題起こしてねーなー。じゃ撤収ー」と、教室に入って来てものの3秒で一日を締めようとしていた銀八先生に、新八君が挙手と共に質問を投げ掛けた。 「ああ?テストぉ?」 左手に持った出席簿でだるそうに肩を叩きながら、銀八先生は新八君の方を見る。早く終わらせたいのに面倒くせーな。その顔にははっきりそう書かれている。 「だってもう来週ですよね、テスト。いつもなら教科日程発表されてる頃だと思うんですけど」 そう、来週はテストがある。日程は3日間。いつもなら、どの日にどの教科が実施されるか既に決まっていてもいい頃だ。一夜漬けを基本とするZ組生徒たちにとって、この日程の割り振りは結果に関わる重要な鍵となる。 「…あー、ハイハイ。テストね。ハイハイハイ」 一拍の間を置いてハイハイ頷き出した先生に、新八君の顔が一気に不信感を増した。 「…先生、忘れてましたよね、間違いなく。来週テストだって」 「いやいや、忘れてねーし。そーそー、来週来週。まぁいっちょがんばってね」 「いえ、そんな心底どーでも良さそうな応援いらないんで。もっと担任として僕らに伝えるべき連絡事項があるでしょ」 「そうアル。テスト教科の組み合わせ次第でお腹の減り方もまるで違ってくるヨ。数学と英語が同じ日だったりしたら大変なことネ。考えすぎてお腹ぺこぺこアル。休み時間に酢昆布じゃ足りないからそれ相応の対策が必要ネ」 「そうじゃなくてね…神楽ちゃん。勉強する教科の順番とかね、そっちでしょ、対策を考えるべきなのは」 「そうでさァ。早ェとこ日程教えてくれねーと土方さんの勉強をいかに邪魔するかっていう俺の計画が完成しねーや。こーいうのは正確な情報を入手しねェと思わぬ隙が出来かねねーんで」 「てめーの勉強棒に振ってまで綿密に俺の邪魔せんでいいわァ!」 沖田君と土方君も加わり、どんどん変わってくる話の方向性。「いえ、だからそーじゃなくて」と、どうにか元に戻そうとする新八君もろとも、ざわめき始めた教室をぴしゃりと静めたのは銀八先生の声だった。 「甘えたこと言ってんじゃねーぞ、てめーら」 眉間にシワを寄せて首を曲げ、煙草の煙を勢いよく吐き出しながら先生は教室を見渡す。 「人生にはなァ、これからどんな問題がどんな順番でやってくんのかご丁寧に教えてくれる奴なんざいやしねーんだよ。んなことじゃ目先の試験は乗り越えられても、人生という名の終わらない試練を乗り越えることはできやしねーんだよ。ぶっつけ本番でてめーらの真価を見せるくらいの根性出しやがれコノヤロー」 「逆ギレ!?自分がテストの事忘れてたからって、人生論まで持ち出して逆ギレ!?」 「つーことで、真っ向からぶつかって砕けんのが青春だ。俺はそんな熱いお前たちを遠くから見守っている。ハイ、以上。日直ー」 「きりーつ」 「えええ!?ていうか結局何一つ解決してないんですけど!『砕ける』って言っちゃってるし!なんでみんな問題なく起立してんの!?」 「礼、さようならー」 新八君の抵抗も空しく滞りなく終わる帰りの挨拶。帰り支度を始め出す生徒たち。なんだかんだ言ってもいつもの事として諦めの早さは身に着けている新八君も、溜息一つの後に同じく下校の準備に取り掛かり出している。 受験生という立場に関わらず、Z組が他クラスに比べて担任生徒共々呑気過ぎるのは周知の事実。『やる時はやるけれど、やらない時は本当にやらないZ組』。一部他クラスからの評価は正しい。では、いつが『やる時』なのか。少なくとも今回のテストがその時では無いことは、クラスと担任の雰囲気からしても間違いないらしい。 銀八先生のやる気無い足取りを追うように、廊下に出た。 その途端「銀八先生ー」という、はしゃいだ呼び声が耳に届く。彼を待ち構えていたのは、隣のクラスの数名の女子。 「先生、来週のテスト、国語どんな問題出るの?ヒントちょうだいー」 「知らねーよ。そーゆーのは問題作ってる先生に聞きなさい」 「えー、じゃあ勉強教えて。国語全然わかんないよ」 「そーゆーのはマトモに国語教えてる先生にドンペリでも入れて教えてもらいなさい」 自分で堂々と言う台詞じゃないよなぁ、と思いながら廊下の片隅のそんな光景を横目で眺める。「じゃあね」「また明日」。クラスメイトに挨拶をして、もう一度そちらを見ると、女生徒たちの教えて攻撃はまだ続いている。「図書館で勉強するから教えて」「職員室行くなら付いてっていい?」。銀八先生はその一つひとつをのらりくらりとかわしている。 今日は準備室への寄り道、遠慮した方が良さそう、かな。 放課後の国語科準備室。ほんの短い間でも、銀八先生と過ごすその時間がすっかり当たり前になっていた。けれど。 本当は銀八先生はみんなの銀八先生で。自分の好きな人である以前に、この高校の一国語教師で。 いくら放課後とは言え、それは変わらないのだ。ましてやテスト前。銀八先生に限らず他の先生方も、この期間だけは「出題問題のヒント」だの「授業でわからなかったところ」だの、次々質問をアタックされがちなのだ。 そう、だから、今日は邪魔しないようにまっすぐ家に帰ろう。 そう心に決めて。つい俯いてしまう顔を上げて、丸まりそうになる背中を伸ばして。銀八先生と彼を囲む女生徒の脇を通り過ぎようとした、その時。 「」 不意に聞き馴染んだ声に呼ばれて立ち止まった。振り返ると、何かが弧を描いてこちらに飛んで来る。慌てるまでもなく綺麗に手の中に落ちて収まったそれには、『3年Z組出席簿』という文字が。 「俺、職員室寄ってから行くからよ。ソレ持ってっといて」 さらりとそう言った銀八先生のいつもと変わらぬ気だるい目と、何事かと振り返った女生徒たちの少し驚いたように不思議そうな目が、こちらに一斉に向けられた。 「…ハイ」 そんなこと堂々と他のクラスのコたちの前で言っていいのかな、とか、でも別に担任教師とその教え子として怪しまれる程のやり取りでも無いのかな、とか、この場合何て返事するのが一番自然なのだろう、とか。色々な思いが頭を駆け巡ったけれど、そんなものよりも強く嬉しさを主張している胸の奥が、気の利いた返答など与えてはくれなくて。両掌の間に出席簿を挟んだ状態のまま頷くと、銀八先生は口元で小さく笑った。 逃れるように背を向けて再び廊下を歩き出す。背後から微かに、「ズルイ」と不満げな声がいくつか。よく聞き取れなかったけれど、やっぱり銀八先生はのらりくらりとかわしているようだった。 一歩進む度、足が軽くなる。早くなる。手にはザラザラと固い表紙の感触。持つ手に少しだけ力がこもる。今だけはこの薄汚れた出席簿が、何かを伝えてくれる手紙のように大切なものに見える。下るつもりだった階段を上がって、目指すは4階。国語科準備室。だって自分には、この大事な出席簿を教室から準備室まで運ぶという重大な任務があるのだから。 銀八先生は私だけの銀八先生ではなくて。みんなの銀八先生で。こんなのが、ズルイ事くらい百も承知。でも、受け取ってしまった以上はゆずれない。時々は我慢だってするけれど、受け取ってしまったのだもの、ゆずれない。絶対に。 「ミッションは無事コンプリートしてくれたわけね」 国語科準備室に入ってきた銀八先生が机の上に置かれた出席簿を見ての第一声。その表情は、なんだか楽しげ。見抜かれまいとしたのに、結局は見抜かれているんだろうな。そう思う。 その出席簿の上に先生が乗せたのは、何やらくしゃくしゃのメモ。よく見るとそこには、『1日目 英語、日本史』などと殴り書きされた教科名。やっぱり既にテスト日程は発表されていたらしい。職員室でこれを探していたのかな。意外と真面目なその行動に、つい笑うと、「何笑ってんだ」と睨まれた。 「みんな、勉強教えてほしそうだったのに、いいの?」 「だーから俺に聞いたってテスト問題なんか知らねーんだから意味ねんだって。国語を教えてる先生に聞いた方が勉強になんの」 「…銀八先生は何教えてる先生なの」 「友情と努力と勝利かな」 「…」 それは教えているっていうか、先生だけが教わっているっていうか。単に読んでいるっていうか。 「人の心配してる場合じゃねーだろ。おめーもテストだろーがおめーも。ちったァ勉強してんのか」 この人は本当に、唐突に教師みたいな事を言い出すから困る。正直テスト勉強にはまるで手をつけていない。もしかして一番呑気なのは私なのだろうか。答えられずに目を反らしたものの、黙ってこちらを見る先生の視線を感じて…痛い。 「テスト終わるまで放課後寄り道禁止な」 「えっ。寄り道って、ここも?」 「他にどこがあんだよ。ここが最大の寄り道だろーが」 「ここで勉強しようと思ってたのに」 「バカヤロー。俺がここで黙って勉強させとくと思ってんのか。そのへんの教師と一緒にすんじゃねーぞ。手ェ出すぞ。そう簡単に集中させねーぞ」 「…そんな自信たっぷりに言われても」 テストまであと1週間。先生の言う事は正しいけれど、例え短期間でも毎日の寄り道がなくなってしまうのは、やっぱり寂しくて。なかなか素直に「はい」が言えない。 「大体、テスト前に帰りが遅ェんじゃとーちゃんかーちゃんも心配すんだろーが」 付け加えられた台詞に、何だかつい口元が緩んだ。 何も考えていないようで、思うがままに行動しているだけのようで。 先生は、いつだってこうして考えてくれている。私のことだけじゃない。きっと、他の生徒たちのことも。わかった、と頷いた。とーちゃんかーちゃんだけじゃない。こんな銀八先生だからこそ、先生自身にも心配を掛けちゃいけないと心から思う。 「勉強でわからないとこがあったら来てもいい?」 「お前国語で質問するとこなんか今更なんもねーだろ。国語は問題ねーから勉強しなくて良し。他の教科やれ、他の教科」 どうしてもここに来たくなってしまった時の保険をとっておこうと思ったのに。あっさりとはね返されてしまった。 たしかに国語は不純な動機で熱心に取り組んできたばかりに、それなりに良い成績を取れているわけで。実際勉強が必要なのはその他の教科であるのは間違いない。 「つーことだから今日はテスト期間対策ってことで」 「対策って、」 何?尋ね返そうとした言葉を遮るように、先生の手が私の頭に乗せられた。くしゃりと髪を乱されて、目にかかった一筋を振り払い見上げてみれば、落ちてくるのは軽いキス。こんな風に先生は、いつだって私を黙らせる。口に出しかけた質問は小さな欠片となって、先生の温度に溶けて消える。 先生はソファに座ると、自分の隣の席を叩いて示した。座れ、とばかりに。 「今日はいいの?」 「ま、今日くらいはいーんじゃねぇの?」 許可が出たその場所に腰掛ける。隣の銀八先生は、テレビのスイッチを入れテーブルのジャンプを手に取ってから深くソファにもたれ直す。どちらか片方に集中すればいいのに。いつも彼はこうして、テレビとジャンプを交互に見ている。自分はそれを見習わず、テレビに集中。最近ここで見ていた連続ドラマの続きが気になっていたから。なのに。先生がページをめくる度に微かに触れる肩が、つい気になってしまって。視界でゆらゆら揺れる銀色の髪をそうっと盗み見ると、顔を上げた先生と目が合った。 「テレビか俺かどっちかにしといたら〜?」 ニヤリと笑ったその顔に、少なからずショック。まさかその台詞を先生に言われてしまうなんて。でも、返す言葉もない。 「…じゃあドラマにする」 「いや、そこは俺にしとけって。先生がいれば何もいらないのーとか言っとけって」 「じゃあ先生も私がいればジャンプいらない?」 「…それとこれとは話が別じゃねーかな、ちゃん」 ここで『ジャンプいらない』と言えないのが銀八先生だ。普通は怒るところなのかもしれないが、笑えてしまう。 尋ねるまでもない。答えを聞くまでもない。 もうちゃんとわかっている。 この、緩やかでくだらなくてあったかくて、時々苦しい程に愛しくなる。先生がくれるいつも通りの時間が。 寄り道抜きでテスト勉強集中な一週間を乗り切る。そのパワーを蓄えるための、一番の対策なんだよね。 |