職員室
放課後。 歩きなれたコースを辿って校舎の端へ。 上へと進む階段の足取りも、この時ばかりは軽くて。一段行くごとに、歩みは小走りへと変わっていく。 上り切った先、見えてくる『国語科準備室』の白いプレート。 ところどころ塗装の剥げた木の引き戸の前に立ち止まり、いつも通り、一呼吸。 急ぎ足に乱れた前髪を直して、スカートの裾を2〜3度払って。 そして、ノックを2つ。 いつも通り「あー?」とダルい声が応えてくれるのを、待つ。 …けれど、返ってくる声は無い。 静かなままの準備室の戸を、そうっと引いてみた。 隙間から覗いた先。山積みジャンプと灰皿と若干の教材が載った机は、空っぽ。 戸を全開にして、探しようも無い狭い空間を見渡して。 手に持ったもの。『3年Z組学級日誌』に視線を落とす。 本日の日直として、珍しく用事持参だと言うのに。 どこに行ったのかな。 今日は雨降りだから、屋上にもいないはず。 少し迷った後、日誌を小脇に抱え直して来た道を引き返す。 日直業務は、日誌をちゃんと確実に担任の手に渡して、それで終了なんです。 机に置いて黙って帰ったりしちゃ、いけないんです。 だから、銀八先生を探しに行くんです。 100%先生に会いたいだけな自分をわかった上で、この無理過ぎる言い訳は誰に対してなんだろう、ね? 上り切った階段を、今度は下り切って。 校舎の逆端へとやって来た。 突き当たりの戸の上には『職員室』の文字。 途中、Z組の教室前で、まだ帰っていなかったクラスメイトたち数人とすれ違って。 銀八先生の行方を聞き込み調査してみたところ、妙ちゃんから目撃情報が。 『職員室に入ってくとこ見たわよ?』 職員室?? あそこにいるとグダグダうるせー奴ら多くてよォ、ジャンプがはかどんねーんだよ。 以前聞いたことがある、そんな台詞。 そもそも職員室にいるのがウザったくて入り浸っていた物置代わりの空き部屋を、勝手に『国語科準備室』と銘打って堂々と使っているらしい、とのものすごく信憑性高そうな噂まであるくらいなのに。 …珍しい。 ノックをして、職員室の戸を静かにすべらせた。 銀八先生の席は、窓際の一番奥。 校長先生や理事長や。 銀八先生曰く『グダグダうるせー奴ら』が職員室にやって来た時、一番遠くて目立たない位置にあるその席は、クジ引きで勝ち取ったのだと言っていたっけ。 柔らかげに揺れる銀色の髪。 ゆるゆると上るタバコの煙。 だらしなく立て膝をついて、椅子を揺らして。 たしかに入口からは遠いけど…でも他に席に着いているどの先生方よりも纏う空気は目立っているから、あまり意味、無いかも。 「先生、日誌ここ置いていい?」 下を向いたままの丸まった白衣の背中に声をかけると、「んあー」と許可とも拒否とも判断しにくい、どこか上の空な答えが返ってきた。 てっきりジャンプでも読んでいるのかと思ったら。 手元にあるのは、国語のテスト用紙。 肘をついた姿勢で面倒臭そうに頭を掻きながら。 右手に握った赤いペンで、容赦なく×をつけている。 「あ゙〜、もーどいつもコイツも」とかブツブツ言いながら。 苛立たしげにいつもよりハイスピードでペンを回しながら。 「それ、先月やったテスト?」 「あー?そー」 「いつ返ってくるのかなぁと思ってた」 「忘れてた」 そんなものすごく銀八先生らしい返事と共に、彼はやれやれと言わんばかりの大きな伸びをした。 そしてやっと私の方を見る。 「なんでこー、うちの奴らときたら口と体は無駄に勢いにノってんのにオツムのノリは悪ィわけよ?脳みそ何製?エアーか?エアーなのか?」 先生は、思い切り眉間にシワを寄せながら短くなったタバコを灰皿に押し付けると、一旦途切れた言葉を更に続かせる。 「世間がいくらおバカブームっつってもよォ、1クラス丸ごとおバカさんの回答チェックする俺の身にもなれっつーの。こんなもん島田●助さんでもさばき切れねーよ」 それまで溜まった分を吐き出すようにぼやきながら咥える新しいタバコ。 灰皿、既に吸殻の山だけど。 「先生、職員室にいるの珍しいね?」 テストの結果以上に気になっていた疑問をまずはぶつけてみると。 「メンドくせーけど、こーいうこたァこっちでやんねーと。あっちじゃ何かと誘惑が多くてはかどらねんだよな」 回していたペンを止めて、テスト用紙の束をコツコツと叩く。 国語科準備室の誘惑。それってなんだろう。 尋ねてみると、「アレだよ、ジャンプとか〜テレビとか〜長椅子とか〜」…とたしかにいつも先生が誘惑されているモノたちの名前が上がっていく。 そして最後に先生は言葉を切ると、一番上に乗っていた答案の余白に、持っていた赤ペンを走らせた。 『お前とか?』 いつも黒板で見るのと同じユルい文字の短い文。 反則だ。急にそんな、筆談。 他の先生方に怪しまれちゃいけないから、何も口には出せなかったけれど。 顔が熱くなっているのが自分でもよくわかる。 …ていうか、いいんだろうか。そんなトコにそんなコト赤ペンで書いちゃって。いや、良くないよね。 「あれれ〜?どーしたァ?顔赤くね?風邪かァ?そりゃ大変だなァ、オイ」 わかっているクセにわざとらしくそんな事を言う銀八先生の表情は、ポーカーフェイスながらもどこか楽しげで。 なんだかんだ言いながら、職員室という状況をきっちり活用しているよね。先生。 「ほんとじゃ。真っ赤じゃのう。具合悪いなら先生がお姫様だっこばして保健室連れていっちゃるきにー」 真後ろから急に底抜けに明るい声が掛けられて、肩が飛び跳ねた。 振り返ると、サングラス越しにいつもの全開の笑顔でこちらを見ているのは数学の坂本先生だった。 どうやら銀八先生の隣の席だったらしい。 慌てて私が避けると、アハハハと楽しげに笑いながら椅子を引いて腰かける。 「いえ、あの。大丈夫です。全然元気です」 取り繕うように答えると、坂本先生は 「元担任にそんなヨソヨソしい態度とらんでもええがじゃ〜」 と、大きな声で更に笑う。 そう、坂本先生は、2年生の時の担任。 「辰馬ァ。何うちの生徒ナンパしてくれてんだよ。てめーが言うと気持ちワリーんだよ、セクハラじみてて」 銀八先生がそんな坂本先生を、ウザったそうに睨んだ。 仲が良さそうなのは知っていたけれど、名前で呼ぶくらいの間柄なんだ。 「アハハハ。いや〜は何でも顔に出ておもしろいがやき、つい構いたくなるんじゃ。悪気は無いぜよー。のう?」 そう言うと坂本先生は、私の肩をポンと叩く。 「うちの生徒に不必要に接触すんな。法廷に引きずり出すぞコラ」 更にしかめた表情で銀八先生は、そんな坂本先生をシッシッとばかりに上げた足で払う。 そんな行動にも慣れた様子の坂本先生は、一切動じず「そりゃすまんのー」と何食わぬ顔。 「オイ、このオッサンあんま関わんねー方いいぞ。頭カラだから。スッカスカだから」 「頭はカラっぽな方が夢を詰め込めるもんぜよ」 「お前ソレどっかで聞いたことあんぞ。パクったろ。国民的アニメの国民的主題歌からパクったろ、ソレ」 「パクリとか濡れ衣着せられても、わしゃあチャラヘッチャラじゃきー」 「いや、パクってんじゃねーか」 坂本先生とそんな軽口を叩き合う銀八先生の顔は、なんだか見たことのない顔で。 いつも生徒と話す時とは、少しだけ、違って見える。 友達と話す時は、そんな感じなんだ。 「先生、じゃあ私帰ります」 なんだかもう少しこの2人のやり取りを見ていたかったけれど、いつまでも職員室に居座るわけにもいかない。 銀八先生は、手元のテストに再び視線を向けた状態のまま、「ハイ、お疲れさん〜」と片手を上げた。 そんな彼に背を向けて、歩き出す、と。 「」 名前を呼ばれた。 振り返ると、こちらを見るやる気の無い、けれど一瞬だけ垣間見えた2人でいる時の優しい目。 「また明日〜」 たった一言そう加えて。銀八先生は、また何事も無かったように採点を続け出す。 先生の、あっさり軽い口調で投げ掛けられた『また明日』には。 気を付けて帰れ、とか。 あんま構ってやれなくてワリーな、とか。 つーか明日も会えんだし、とか。 そんな色々が入っているんだろうこと。ちゃんとわかっているから。 なんだか嬉しくて、口元が緩んだ。 「ハイ」と返事した私の視界に、ニヤリと笑う坂本先生が目に入った。 彼は、私を見ながら2〜3度頷き、そして、 「おんしゃー、まっこと幸せそうじゃきねぇ」と満足げにつぶやいた。 意味がわからず、はい?と首を傾げると、「こっちの話じゃきー気にしなや」と相変わらずの笑い声と共に、かわされるのみ。 その隣では銀八先生が、何やら文句ありげな不機嫌そうな表情で坂本先生を睨んでいて。 そんな様子がおかしくて、結局何がなんだかわからないままに笑ってしまった。 仕事中の、いつもより少しだけ『先生』らしい銀八先生と。 友達と話す、いつもより少しだけ『先生』らしくない銀八先生。 たまには職員室も、なんだか得した気分になれて、いいかも。 翌日。 採点が済んで返された国語のテスト。 右下のすみっこ。余白部分には小さくて赤い『お前とか?』の文字。 これ、私のテストだったんだ。 『お前とか?』って何? 素早く気付いた新八君に、ツッコまれたけれど。 採点、と答えておいた。 だってこっちの方が、左上に大きく書かれた『87点』より、ずっと嬉しいから、ね。 + |