10月10日。 誰よりも先に「おめでとう」と言いたくて。 誰よりも先にその一言が伝えたくて。 0時。日付が変わると同時に、メールを送るつもりだった。 なのに銀八先生が、 「あ゙〜。明け方まで飲んでたからダリー。も、即効かえって寝る。会議出ねー」とか、半分死んだ顔で授業中からグダグダ言っていたから。 起こしちゃいけない、と思って結局メールはできなかった。 それなら、朝一。 学校に着いたらホームルームが始まる前に準備室に行って「おめでとう」を言おう。 夜のうちにそう決めて、少し早めに学校へ。 なのに準備室に行ったら、少しだけ開いた戸の隙間から、楽しげな話し声。 「先生、今日誕生日なんでしょ?おめでとー」 「チョコしかないけどあげるー」 他クラスの女生徒が2人、はしゃいだ声でデスクに座る銀八先生を囲んでいるのが見えた。 「よく知ってんな、おめーら」と、先生の声。 考えてみれば、私だって付き合う前から先生の誕生日を知っていた。 生徒同士の情報ネットワークというのは意外と強いもので。 必要不必要に関わらず、色んな情報が入ってくるもので。 学校に来てしまえばもう、誰よりも先になんて、簡単ではなかったのだ。 結局、朝一作戦も失敗。 準備室に入ることもできないまま、教室へと戻った。 ホームルームは、いつも通りに大騒ぎで、バタバタで。 そんな一言を挟む隙もなければ雰囲気でもなく。 廊下で声をかえようとするけれど、案の定、あちこちで生徒達から 「せんせー、今日歳とったんだって?」 「いくつ?」 などと、声をかけられたりしていて。 いつも以上に隙がなくて。 「俺ァ、永遠のハイティーンに決まってんだろーが」 と、いつもの調子でそれに答える先生の背中を、追おうとして諦めた。 今日は国語の授業も無い。 昼休み、いつもの自販機の前で先生は、別の女子から「おめでとー」いちご牛乳をもらっていた。 ウロウロするばかりの自分を他所に、時間は無常に過ぎていくだけ。 周りのみんなが、軽い調子で口にする「おめでとう」ばかりが耳に付く。 あんな風に通りすがりに言うのは簡単なのに。 でも、そうじゃない。もっとちゃんと言いたい。 そう思ってしまうのは、「彼女」なんて地位を得てしまった自分の、小さくて独り善がりなこだわりなんだろうか。 そんなんだから。ほら、もう帰りのホームルーム。 結局、先生に「おめでとう」を言えていないのは自分だけに思えてきた。 どうしてこう、間が悪いのかな、私。 「オイ」 ホームルームも終わり、帰り支度に騒がしくなる教室で。 ぼんやりしていたら急に声がかかって、現実に引き戻された。 目の前で白衣の白と流れる煙の筋が揺れた。 顔を上げると、私を見下ろす銀八先生。 そして、私の手に何かを握らせると 「俺まだだから、先行っとけ」とだけ言って、教室を出て行った。 手を開くと、それは、鍵。 沈んでいた心が、急に飛び跳ねた。 先生のリクエスト通り、ちゃんと家には言い訳してきた。 今日は友達の家に寄るから帰り少し遅くなるね、って。 これから先生の家でお祝いできる。2人でお祝いできる。 誰よりも先に、じゃなかったけれど。 挽回できるかな。まだ、遅くないかな。 まだ勤務時間の残っている先生より先に学校を出て、借りた鍵で先生のアパートの扉を開いた。 先生のいない先生の部屋は、なんだかいつもより広くて、薄暗くて、ひんやり肌寒いような気がした。 でもそんな部屋に自分がいることが、もうすぐ帰る人をここで待てることが、うれしい。 テーブルに、これもやっぱり先生のリクエストに応えたケーキを用意した。 昨夜家で作ったケーキ。 事前練習は2回。 味は妙ちゃんと神楽ちゃんと九ちゃんの味見で保障済み。 だから大丈夫。 …多分ね。 早く先生帰ってこないかな。 「おめでとう」って早く言いたい。 早く。早く。 ピンポーン。 チャイムが鳴った。 トントトトン、と合図するようなノック音。 続いて、俺、と聞き馴染んだ声。 走って部屋から廊下へ、そして靴もはかずに玄関に下りる。 慣れない鍵をあたふたと回すと、ドアが開いて気だるい顔が入ってきた。 「ただい…」 ま。 まで先生が言う前に、その胸元に飛び込んで、しがみつくように背中に手を回した。 そしてそのまま。 何も、言えなくなってしまった。 何やっているんだろう、私。 あんなに言いたかった言葉を。 顔を見たらすぐに言おうと思っていた言葉を、口にするよりも。 体が先に動いてしまった。 今日1日伝えられずに積もり積もった気持ちが。 強さでは誰にも負けていないはずなのに、みんなに先を越されてしまった気持ちが。 もう言葉なんかじゃ足りないとでも主張するように。 「どうしたよ。なんかあったか?」 さすがに少し驚いた様子で先生が尋ねてきた。 首を振る、そしてとりあえず出てきたのは。 「…おかえりなさい」という一言。 ああ、もう、そっちじゃないのに。 違うでしょ、言うべきセリフは。 そして、段々恥ずかしくなってきた。 本当に何やってるんだろう、私。 こんな…仕事から帰ってきた人が部屋に入るのを阻止してまで、玄関で。 「ごめんね」 そう言って、慌てて離れようとしたら、今度は先生が私の背中に回してきた手に阻まれた。 「何?寂しくでもなっちまってたんですかァ?」 茶化すような先生の声が耳元で聞こえる。 「そうじゃないけど」 「けど、何よ。なんか俺に言いたいことでもあった、とか?」 「…なんで知ってるの?」 「今日一日な〜んか言いたげに人の顔ばっか見てたろーがよ」 楽しげな先生の言葉に、なんかもう、一気に恥ずかしさが倍増した。 意地悪だ。 気付いていたなんて。 「知ってたなら、何か言ってくれればいいのに」 「バカ、おめー。あんなうるせートコじゃなくて、帰ってから祝われてーだろ、お前には。お楽しみは後にとっとくモンなの」 先生の腕の中はあったかくて。 今日一日のうまくいかなさや沈んだ気持ちも、きれいに溶かしてくれるようで。 簡単。私の浮き沈みなんて、結局先生次第。 「いやァ、それにしても。後にとっとくモンだな、ほんと。まさかが自分から抱きついて来るとはねェ〜」 新婚さんみてー。 顔は見えないけれど、もう絶対、ニヤニヤ笑っているのがわかるような口調。 自分の行動を思い返して耳まで熱い。 もう、今、顔見られたくない。 「あの、先生。もう部屋入ろ?ケーキ作ってきたんだよ?」 まるで腕を解こうとしない先生の気を引こうと話題を転換してみる。 「つーことは、リクエスト2つはちゃんと聞いてくれたわけね?」 「うん。たいしたことできなくて、ごめんね」 「じゃ、最後のリクエスト〜」 「えっ」 結局2つ以外に今日まで何のリクエストも出なかったから、これだけだと思っていたのに。 何?なんの用意もしてないよ?私。 少しだけ腕を緩めた先生が、頭をグルグルさせる私を間近から見下ろした。 「俺、からチューしてもらったことって無いんですけど」 「えええ?!」 もう、だって今、さっきの行動だけで先生の目見れない感じになってるのに。 予想外のことを言われてしまった。 なんの心の用意もできてないこと言われてしまった。 「いや、さっきので十分満足っちゃあ満足なんだけどよォ。やっぱ、なんつーの?人間、より上を求めてしまうっつーか。願望は留まるところを知らないっつーか」 どうですかねェ?と冗談めかして先生は私の目を覗く。 どうしてこの目に見られると、動けなくなってしまうんだろう。 先生は、本当にそんなことで喜んでくれるのかな。 こんな大切な日に、何もしてあげれない私だけれど。 間が悪くて、計画通りの素敵な誕生日、なんてまるでセッティングもできない私だけれど。 でも、先生が生まれてくれたこの日を心から大切に思うから。 先生のジャケットの袖を握って、背伸びした。 暖かい唇に、ほんの一瞬だけ、唇を付ける。 離れて、目と目が合う。 照れくさいけれど、そらさないように。 まっすぐ見つめて。 この時のために、言いたい気持ちを今日1日分蓄えたんだから。 「先生、おめでとう」 やっと言えた。 その一言。 先生は、口元で優しく笑って、もう一度私を腕の中に閉じ込めた。 「やべー。いいな、誕生日」 そんな言葉に笑うと、先生が「来年はリクエスト、バージョンアップだな」とつぶやいた。 来年の誕生日も予約済。 今度こそはもっと用意周到にがんばらなくちゃ。 言葉にするのは遅くても、誰よりも誰よりも、心の中で言い続けていたんだよ。 先生が誕生日、「いいな」って思ってくれたのなら、ちゃんと伝わったって思ってもいいよね? 誕生日おめでとう、銀八先生。 その一言 |