ノック不要
ノックをすると、戸の向こうから返ってくる低い声。 「あ〜」とか「ん〜」とか。いつもそんな感じの、気の抜けたトーンの入室許可。 そうしていつも通り足を踏み入れた国語科準備室。本日の銀八先生の居場所はデスクではなくソファ。 お供は読み込んでクタクタのジャンプではなく、画像も荒いボロボロのブラウン管テレビ。 夢中なのか、ぼんやりなのか。非常に判別しがたいいつもの死んだ目が向けられた先では、再放送の刑事ドラマが流れている。 私は黙って先生の隣に腰掛けた。 許可を得ずとも許される、隣の席。大切な大切な、私の居場所。 ドラマの展開は正に佳境。追い詰められる犯人、問いただす刑事。 緊迫した画面の向こうの雰囲気とは裏腹に、ソファの背もたれにだらりと左腕を掛けて銀八先生は緩いスタイルを崩さない。 そんな先生の白衣の右肩に、そっと頭をもたれてみた。 染み付いた煙草の香りが、するり、体の中へと入り込む。ほんの一瞬、締め付けられるような胸の苦しさと小さな眩暈。そしてすぐに訪れる柔らかな安らぎ。 先生は、黙ったまま。 私も、黙ったまま。 2人、犯人の不幸な生い立ちと殺人の動機に耳を傾ける、西日差し込む準備室。 渋い音楽と共にエンドロールが流れ出すと、先生は大きな欠伸をしながら両腕を上げて体を伸ばした。 合わせて私も、もたれていた頭を起こして体を離す。 ドラマも終わったし、次はデスクに移動してジャンプの番かな。 そんな事を思いながら先生の行動を眺めていると。 首を左右に鳴らした彼はソファの上に片膝を立て、テレビでもジャンプでもなく私の方へと体を向き直らせた。 今日この部屋に来て初めて、目と目が合う。 「ん」 さっきドラマを見ていた時と何ら変わらぬやる気無い表情の先生が、短い声と共に私に右手を差し出してきた。 その手とその顔を2〜3度交互に見比べて。 「え?」 それでもやっぱり意味がわからず首を傾げてしまう。 先生は、差し出したままの右手を促すように揺らすと。 「来いって」 当たり前のように、そう言った。 その言葉の意味を飲み込むまでに、数秒。 意味がわかって、本当にいいのかとまごつく事、更に数秒。 急かすでも、諦めるでもなく、そんな私をただ待っている先生。 私は座ったままずるずると先生の方に体を近付け、差し出された腕の内側に入り込む。そしてその胸元にそうっと額を付けた。 私の遠慮分空いた数センチの隙間は、閉じられた先生の腕に縮められる。 またやって来る眩暈。胸の痛み。しばしの後にやって来る、絶対の安堵感。 隣にいて、先生の体温を感じて、それを当たり前のように許されて。 ただそれだけで十分だとさっきまでは思っていたのに。 抱きしめられて初めて、本当はこうしてほしかったんだという事に気付かされる。 そしてそんな私に、先生がとっくに気付いていたらしいという事も。 けれど先生は、やっぱり何も言わない。何も聞かない。 どうした?とも、珍しいな、とも。言われるかもと予想していた言葉たちは、先生からは出てこない。 視界には先生の淡いブルーのワイシャツと少し生地のくたびれたネクタイ。 耳にはつけっ放しのテレビから流れる聞き馴染んだお菓子のCMソング。 「最近のポッキーってよォ、やれティラミスだショートケーキだってゴテゴテしすぎじゃね?これ最早ポッキーとは呼べなくね?」 「…それ、妙ちゃんにもらったけどおいしかったよ。ティラミスのやつ」 「バカ、おめー、ポッキーはスタンダードにチョコオンリーだろ。これじゃトッピング豊富すぎてポッキーゲームがやり辛ェったらねェよ」 「…いつやるの。ポッキーゲームなんて」 「あ、やべ。渡鬼@\約録画してくんの忘れてたから、先生早めに帰んねーと」 「ごまかした…」 「いやいや、そーゆーんじゃなくて渡鬼≠ェね。ピン子がね」 すぐ側で聞こえる先生の声。そして、鼓動。 私を包み続ける暖かな腕が、心の中に隠れていた膿みやしこりまで探り当てて、ほどいて溶かしていくようで。なんだか体ごと、とろとろと崩れていきそう。 「つーかそろそろやべーよな、このボロテレビ。どっかに落ちてねーかな、地デジ対応薄型テレビ」 「落ちてたらスゴイね」 「もしくは誰か3千円で売ってくんねーかな」 「…諦めて学校では携帯のテレビにしたらどうかな」 「いや、諦めたらそこで試合終了だからね。つーか、俺の携帯がテレビ見れねーの知っててバカにしてんのか、コノヤロー」 「あれ?そうなんだっけ」 とりとめもない話をしていると、不意にコトコトとノックの音が部屋に響いた。 力の抜け切っていた体に、驚きと慌てで渇が入る。 けれど、離れなければとその場から飛び退り掛けた体は、急に力を籠めた先生の腕によって阻まれた。 驚いて顔を上げると、先生はまるで何食わぬ顔。 そして、 「すんませんけど、国語科準備室ただいま工事中で〜す」 唐突に戸の外に向けてそんな事を言い出した。 恐らくいつも私がそうするように、先生の「あ〜」とか「ん〜」とかいうノックへの返答を待っていたのだろう戸の向こうの人物からも「はい?」と驚きを含んだ声が上がる。 あ。今の声、新八君だ。 「つーことなんで、即刻回れ右、オーケイ?」 悪びれなく訪問者を追い返す銀八先生に対し、戸の向こうからは表情など見えないのに、まるで呆れが伝わるような沈黙が数秒。 そして、小さく 「…オーケイ、このダメ教師」 と答えが返ってきた。 スニーカーのゴム底がすれる甲高い足音が、遠ざかっていく。 「…新八君、何か用事じゃなかったのかなぁ」 「どーせ日誌とか、日誌とか、日誌とか?たいした用事じゃねーよ。んなことより」 先生は一度言葉を切って、私の髪を指で優しく梳いた。 「気ィ使いーの甘え下手ヤローが、てめーから甘えてくるっつータイミングを逃がすようじゃ、もったいないオバケが出んだろーが。3夜連続で夢枕に立ってくんだろーが。つーかあえて自分でツッコむなら、古ィよ、もったいないオバケ=v 「…」 どうして、先生は。 どうして、いつだって、こんなにも当たり前のように。 私が口にできないことを。言葉にするのが苦手なことを。すべてその腕に掬い上げて、抱きしめてくれて。 いつだって。 「そろそろ暑苦しいっつーんなら離しますけど?」 「…もう少し離されたくないです」 「じゃ、ま、ごゆっくり」 小さく笑う気配と共にそう言うと、先生は左手を伸ばしてテーブルの上のジャンプを取る。 そして私を腕の中に収めたまま、それを読み始めた。 テレビからは静かなピアノ曲と明日の天気を告げる声。 ゆっくりとページがめくられる乾いた音。 両方が途切れた瞬間に微かに聞こえる、壁時計の1秒1秒。 そのどれよりも一番近くで聞こえる、先生の鼓動。 でもよく耳を澄ましてみれば、この音は、自分の心臓の音のようにも聞こえて。 溶け合って、もう、よくわからない。 私には、ここがある。 理由や説明や言い訳が無くても。入り込む事を許してもらえる場所がある。 もしも、いつものノックの代わりに「ただいま」と言ってみたなら。 先生は、あの気の抜けた声で当たり前のように、「おかえり」と言ってくれるだろうか。 そんな幸せな思いが、この腕の中で、溶けて、流れて。 とろとろと隙間を埋めていく、放課後のひと時。 |