いつもどおり、騒がしい朝の教室。
いつもどおり、廊下の向こうにペタペタとサンダルの足音。
きしんだ音をたてて開く教室の戸。

…。

いつもならここで銀八先生の
「うるせーんだよ、てめーら」
が響くはずで。
当然そう思っていた他のみんなも、いつもと違う間に「あれ?」という顔になる。

教卓を振り返って、その原因はすぐにわかった。
いつもより一層ダルそうに目を半開きにした銀八先生の顔には、半分以上のスペースを覆う大きなマスク。
眉間にシワを寄せたまま、手に持った出席簿を教卓に放る。

とりあえず日直が「きりーつ、礼、ちゃくせきー」と、挨拶をした後。
先生は無言のまま黒板に、
『つーことで自習』
と書いた。

そう、今日の1時間目は、本当なら銀八先生の国語の授業。

「声出ないんですか。先生」
新八君が、二日酔いモードの時と同じく窓際の椅子にだらりと腰掛けた先生に声をかける。

「出るけど出したくねー」

かすれて力の無い、先生、本日の第一声。
そして言った後、ゲホゴホと咳き込む。


「先生でも風邪ひくアルか」
「ほんとねぇ。不思議だわ」
「仮病じゃねーの」
「飲み過ぎて声枯れただけなんじゃないスか」

いつもとは違い反撃が無いのをいいことに、みんな集中攻撃。

うざったそうに黙っていた先生は、一言、
「るせーんだよ。てめーら。感染させんぞ、コノヤロー」
と、低く放って目を閉じた。





1時間目が終わって、休み時間。

ざわめく廊下を走り、立ち話をする女生徒達の間をすり抜け、人気がまばらになる校舎のはしっこへ。
通い慣れた国語科準備室の戸を勢いよく開ける。

でも、そこに先生の姿は無い。
いつも足を放り出して座っている机は空っぽ。
今週号のジャンプの上には、『のどの痛み、発熱に』と書かれた風邪薬の箱が蓋を開いたまま倒れている。
私はその箱の横に今購買で買ってきたばかりの、のど飴を置いた。
10粒入りのいちごミルク味。


「なーにやってんだ?」

突然後ろからかかった声に、体が飛び跳ねた。
振り返ると、準備室の入口に立つ銀八先生の姿。

「先生、ノックしてくれなきゃ」
「ノックも何も開きっぱなしじゃねーか」

中に入って戸を閉めながら渇いた声を出す先生。
そしてまた苦しげに咳を一つして、「あ゙〜」と力無いうめきを漏らす。

「先生、大丈夫?熱とかない?」
「あー。ノドいてーだけ」

そうは言いながらも、なんだかダルそうなんだけど。いつも以上に。
本当に大丈夫かな。

手に持った教材を無造作に机に放った先生が、私の置いたのど飴に気付いた。
手に取り、それを眺めて。
私の頭に優しく手を置く。

「見覚えあんなァ、コレ」



それはまだ、私と銀八先生が付き合う前の話。
やっぱり大きなマスクをして、無言で黒板に自習≠ニ書いた先生を見て。
購買で買ったいちごミルク味ののど飴を、今日と同じく、誰もいない準備室の机の上に置いた。
私からだなんて、わからなくてよかったから。
ただそうして、黙って準備室を出た。
少しでも先生の喉に、効果があればいいなと思いながら。

放課後、帰り際の廊下で、だるそうに歩く銀八先生と会った。



すれ違いざまに呼び止められて振り返ると、先生が白衣のポケットから残りわずかなのど飴を取り出し、私に振って見せていた。

『サンキュな、コレ。助かったわ』

驚いて声が出なかった私を残して、先生はペタペタ廊下を歩いていったっけ。



「あの時なんで私だってわかったの?先生」

のど飴置いて行ったの、誰にも見られてないはずなのに。

「俺と購買のおばちゃんの仲をバカにしちゃいけねーよ?」

先生はそう言いながらマスクを顎にずらし、のど飴を一粒口に放り込んだ。

…購買のおばちゃんて。
そんなスパイがいたんじゃ、コッソリしたくても到底敵いっこない。

「ま、お前のそーゆーとこが決め手だわな」
「え?」

何が?と聞こうとして顔を上げたら、先生の唇が額に触れた。
柔らかい感触に、一気に血が顔に集まる。

「うつるとヤベーから残念ながら今日はこんくらいで」

お礼は後日じっくり改めて〜、とつけ加えながら先生は、のど飴をポケットに入れて教材を抱え直す。

「オラ、休み時間終わんぞ」
「ああっ、ほんとだ!」

ぼんやりしていた意識を引き戻されて、戸口に立って私を待つ先生の背中を慌てて追いかけた。

私の方が、熱出ちゃうよ。
先生のせいで。




今日の先生はきっと、一日中いちごミルクの匂い。
甘い香りも好きだけれど、ほろ苦いタバコの煙を連れて、面倒臭そうに。けれど、いつまでも皆と話してくれるいつもの先生に会いたいから。
早く良くなるの待ってます。

もうお礼も期待させちゃったんだから、責任取ってなるべく早く、ね。




のどあめ