蝉時雨
くっきりと平らに広がる夏の空から、降り注ぐ晴天の雨音。 ジリジリと暑さを増すように。 一夏の記憶を脳裏に焼き付けようとでもするかのように。 蝉時雨は留まることなく降り注ぐ。 「お妙さーん!」 背後から近付く聞き飽きた呼び声には、もう振り返るつもりもない。 周囲を気にしない大声と、それを明らかに無視する私に、道行く人が不思議そうな目を向けてくるけれど、お構いなし。 「お妙さん、奇遇ですね!買い物帰りですか?荷物、お持ちしましょうか?」 私の無視など意にも介さぬ様子で横に並んできた彼は、うれしそうに私の方を見ながらゴツイ手を差し出してくる。 「結構です」 一言だけ答えると、まぁ遠慮なさらずに、と私の手から荷物を取る。 「ちょっと、近藤さん!やめて下さい、頼んでいません」 勝手な行動に腹が立ち、そちらを見ると、彼は怒られているのに満足げ。 「やっとこっちを向いてくれましたか」 「…」 バカみたいな一言に、怒る気力も失せた。 本当にこの人は。 どうして人を苛立たせるのがこんなに上手なのかしら。 この炎天下に、不毛な争いをする気力は起きない。 もういい。したいようにさせておこう。 荷物持ちをしてくれるというのなら願ったり。 諦めて、けれど決して横には並ぶまいと足早に歩いていると。 「この時期は蝉の声がうるさくて困りますなぁ。なんだか、余計に暑くなりますよ」 彼がそう話しかけてきた。 今度こそ無視を決め込もうと誓っていた私は、その言葉に反応する事なく歩き続ける。 蝉より余程うるさい人が、何を言っているのだか。 それに蝉は、短い命を精一杯に誇って鳴いているのだ。 私はこの声が、決して嫌いではない。 「でもまぁ、俺も蝉と似たようなモンですかね」 突然、ポツリとつぶやかれた一言。 「俺も後悔の無いよう、めいっぱいお妙さんへの想いを叫んでおかないと。仕事柄、いつどうなるかわかったものじゃありませんからなァ」 そう言って、大声で笑う。 笑い事ではないだろうに。どこまで能天気なのだ、この男は。 「やめてください」 私はその笑い声をピシャリと打ち切った。 少し驚いたように口をつぐむ彼。 ああ、本当に。 どうしてこんなに腹が立つのかしら、この人に。 「お妙さん?」 「あなたが蝉なんて、風流なモノなわけないじゃありませんか」 「いや…まぁ、そう言われてしまえばそうかも…」 「あなたゴリラじゃないですか。完全なるゴリラじゃないですか」 「完全なる、ですか?!いや、もっとこう…せめてゴリラ的≠ュらいにしてほしいなーなんて…」 主張は無言で却下。的≠セなんて、そんな生ぬるい。 「ゴリラだって蝉に負けないくらい誇らしげに雄叫びを上げますけれど。でも寿命は長いそうですよ?」 投げ捨てるようにそう言って、彼の手から荷物を奪い返した。 その言葉に動きの止まった彼を残して、さっさと先に歩き出す。 「えっ…あの!お妙さん!それって…」 「それって、なんです」 慌てて後を追いかけてきた彼を振り返ることもなく聞き返す。 それって、なんだというの。 別に深い意味など無い。 ただ、耳障りだっただけ。 自分を蝉になど例える、くだらない冗談は。 あまりにも耳障り過ぎて腹立たしいから、やめてほしかっただけ。 「…いえ、なんでもありません」 再び私の横に並んだ彼が、微笑んでいる顔が視界の隅に映り、また私を苛立たせる。 「お妙さん。俺はお妙さん公認ゴリラとして、一生お妙さんの隣で叫び続けますよ」 なんて呆れた、堂々たるストーカー宣言。 「お好きになさって下さい」 反論する気も、手を出す力も湧かず。顔も見る事無くそれだけ返した。 はい、と何がうれしいのか満面の笑顔で答える彼。 そして何を言うでもなく私の手の荷物を再び手に取り、後はそのまま横を歩き続けた。 ああ、きっと来年生まれる蝉たちの声も、私はこの人の隣で苛立ちながら聞く羽目になるのだ。 そんな漠然とした予想。 うるさいストーカーに付きまとわれるのはもう御免。 けれど。 今のように、ただ黙って、蝉時雨に耳を傾けさせてくれるのならば。 こうして隣を歩くくらいはしてもいい。 そんなことを、思った。 こんなにも強い日差しの空に眩む日の思いなど、所詮仮初めだから。 来年も同じく思えるのかなんて、わからないけれど。 そう、それはきっと、誰にもわからない事だから。 蝉時雨
夜の帳が西の山根で微かにくすぶる太陽を飲み込もうとしている。 そんな中、街の中心にそびえる光の柱だけが、闇をも見下すように忌々しくぎらついている。 権力と、弾圧と、背信の象徴。 空をぶち抜き、異質なモンを安易に受け入れ続ける開きっ放しの扉。 いつ見ても、反吐の出る景色。 あんなモンを無理やり突き立てられちまった地面がいつまでも崩れ落ちねェと、どうしてどいつも思っていられるのか。 その気が知れねェ。 藍色へと染まりゆく空の下、耳に響く蝉の音。 くだらねェ街の息遣いを遮る時雨のおかげで、夏の夕暮れは静かでいい。 「晋助様、そろそろ戻りませんと…。真選組の夜間巡回が始まる時間っス」 「なァ、オイ。知ってるか?」 「はい?」 「蝉って奴ァ地下生活の時間も含めりゃ、どうして、虫としちゃあ相当長寿の部類に入るらしいぜ?」 不思議そうに隣からこちらを覗き込む気配。 「短命と言われる蝉が、っスか?」 「どいつもこいつも、所詮目に見えている姿しか知ろうとしねェ。好きに歌って寿命をまっとうする蝉なんぞより、何一つまっとうできずに潰されていく人間の一生の方が余程無常と思わねぇか?」 何も果たせぬまま、どれだけの奴らが腐った世の腹に飲み下されてきたことか。 そんな現実から目を反らし、夜なお明るい異質な街でのうのうと生きる奴らが寿命をまっとうするなんぞ、理屈に合わねェ。 「…蝉は、まっとうできて幸せなんスかね?」 「さぁなァ。わかってんのは、俺もお前も蝉みてェにまっとうなんぞできねぇ、ってことだけよ」 ここまで生きてきたことすら、奇跡。 理由があるとすれば、この上辺ばかりの腐れた世界をぶち壊すこと以外に何がある。 『生きていてくれて、よかった』 昔なじみの、別れ際の言葉を思い出す。 一体、何がよかったと言うのか。 思えばアイツは昔から、呑気なコトばかり言いやがるめでたい女だった。 てめぇも無常に潰されてきたクチだろうに、何故おかしいとは思わねぇのか。 何故のうのうと、この世の中を受け入れていられるのか。 理解できねェ。 理解する気もねェ。 見上げた藍の空から振る声に、もう一度だけ耳を澄まして。 闇に浮かぶターミナルに、背を向けた。 あんなモンに照らされるくらいならば、より深い闇を選ぶ。 すべて塗りつぶせるほどの深い闇を。 この俺が、生きていてよかったなどと。 そんな悠長なこたァ、この先言う気も起きめぇよ。 いくらアイツでも。 言わせちゃおかねェ。 それが、果たすべき全て。 この命がまっとうできずとも歩むべき、唯一の道。 蝉時雨
「見て。銀時」 隣のが、通りすがりの公園に立つ欅の木を指差した。 降り注ぐ蝉時雨の中、日差しを手で避けながらそちらを見れば。 蝉が1匹、その身を太い幹の色にひっそりと溶け込ませていた。 派手な声とは裏腹に、地味な姿で、身じろぎもせず。 「蝉が何だよ」 「やっと姿が見れたから。声はたくさん聞くのに、いつもどこで鳴いてるのかしらって思ってたの」 「お前がトロいだけなんじゃねーの」 「そうなのかしら」 蝉、ねぇ。 そういやァ俺も、この夏に姿を見んのはコレが初めてか。 ガキの頃ァ、もっとよく見てたような気もするが。 「神楽ちゃんなら、どこに蝉がいるのかよく知ってそう。動物も虫も大好きだものね」 「オイ、アイツに余計な事言うんじゃねーぞ。今年の夏は蝉捕りが熱い、とか言い出しかねねーから」 「いいじゃない?蝉捕りなんて、夏らしくて」 「バカ、お前。いいトシこいて炎天下にやってらんねーよ。つーかあんなモン家で飼われたら、うるさくてしゃーねェだろーが」 俺が顔をしかめると、はおかしげにクスクスと笑った。 何笑ってんだよ、と睨んでみると、だって、と笑い顔のまま俺を見る。 「万事屋はいつも賑やかだもの。蝉がうるさく感じることなんて無いんじゃないかと思って。あまり気にならないでしょう?外の蝉の声」 「…」 あんまり考えたこともねぇけど。 家の中にいる時に蝉の声が耳についた記憶はたしかにあまりねーな。 「別にアレじゃねーの。うちの周りにゃいねーだけじゃねーの。つーか家の中までそう聞こえちゃこねーだろ」 「でも、私の家の近くにはたくさんいるみたい。早朝に鳴く種類なのかしら。最近は目覚まし時計がいらないのよ?」 「…ふ〜ん」 じゃあ、なんだ。 やっぱりうちが騒がしいのか。 ま、別に蝉の声に耳を傾けてェとも思わねーから、いんだけど。 「じゃ、アレだな。明日の朝、検証だな。静かな部屋ではマジに目覚ましがいらねーくらい蝉の声が聞こえんのかどーか」 「私の部屋で?」 「て、いう流れに仕向けるための遠回しなお誘いじゃねーの?」 「…深読みなのねぇ」 「まァでも、騒がしいのはうちだけじゃねーよ?」 絶え間ない蝉の音が聴こえ続ける欅をもう一度見上げてみると、もつられたように上を見た。 「この街の騒ぎに比べりゃ蝉なんぞかわいいモンだろ。どいつもこいつも、俺ァここにいんぞって鳴いてやがる。うるさくてしゃーねぇや」 俺の言葉に、しばし黙ったまま欅を見上げていたが、ふっと口元を緩めた。 「銀時?」 「あー?」 「ここが、好きなのね」 「ああ?」 何だ、そりゃ。 唐突な話題展開にその顔を見下ろしてみるが、はただ笑うだけ。 「好きも何もねーよ。騒がしくて、汚くて、右も左もバカばっかりときた」 一旦言葉を切り、鮮やかな葉を揺らす欅の向こうへ視線を移す。 突き抜けるような夏の晴空。 薄汚れた街並みと、乱立する怪しげな看板。その後ろに建ち並ぶビル、そして、ターミナル。 「飽きる暇もありやがらねぇよ」 溜息と共にそう吐き捨てると、は「そうね」とだけ答えた。 …何をうれしそうなツラしてやがんだか。 バカだね、こいつは。ほんとに。 「あ゙〜。暑ィ〜。とっとと帰ろうや。あ、やっぱアイス買ってから帰ろーや」 「新八君と神楽ちゃんの分も買ったら溶けちゃうかしら」 「いんだよ。アイツらのはいらねーの。こっからならお前んちのが近ェだろ」 「寄っていく?」 「あー。つーか明日の朝、蝉の観察日記つけるっつー使命もあるからね、俺には」 高い太陽がまっすぐに視界へと差し込んで、まぶしさに、目を細めた。 夏の日差しはすべてを照らして、すべてを見せつけるから、記憶に焼き付き過ぎて困る。 いつか俺に、蝉の一生より人の一生の方が余程無常だと言った奴の顔が、一瞬よぎって、消えた。 無常だから、なんだってんだ。 結局、蝉も俺らも同じだろ。 無常で、くだらねェ。けれど枯れるまで、鳴き続ける。 それでいいじゃねェか。 今隣にいるコイツのように。その声を聞き逃さず見つけてくれる奴が一人でもいれば。 それでいいじゃねェか。 お前が、今、どこで何を考えてるのかなんざ知らねぇが。 俺は、今も昔も変わっちゃいねェ。 ずっとそう思ってるからよ。 見上げた空は青くとも、きっと一人ひとり、違う青。 それぞれの、夏。 それぞれの、蝉時雨。 |