打ち水
夕刻にもなお暮れない太陽は、絶妙な角度で窓から差し込み、逃げ場無く室内を熱し続ける。 気だるい気温をすり抜けるべく、涼しい所へ、涼しい所へ。 まるで猫のように、じっとできずにうろつきながら。とうとう最終的には玄関へ。 戸を開けて、やっぱり…というか当然外も暑い事に落胆していると、下から涼しげな音が聞こえてきた。 覗き込むと、スナックお登勢の前の通りに、木桶の水を柄杓で撒いているさんの姿。 「さん、何してるんですか?」 水音に誘われて階段を下りてみる。 声をかけると、さんは手を止めてこちらを見た。 「打ち水だよ」 答えたのはさんではなく、店の入口に立っていたお登勢さんだった。 「打ち水?」 「こうすると水が蒸発する時に、空気を冷やして涼しくしてくれるのよ?」 さんが教えてくれた。 へぇ、水撒きってそういう意味があったんだ。 「最近打ち水なんてしてなかったんだけど、このコの提案でね。昔は客を迎える礼儀として、どこの店でもやったもんだけどねェ」 そう言われてみると、玄関周りの空気は少しだけ涼しい気がする。 蒸し暑い夏の夜を迎えるための、小さな心遣い。 さんが再び桶から水を撒く様子を、涼みながら僕は見つめた。 着物の袖が濡れないように、たすきがけで。普段は見えない左腕の傷跡もあらわに。 知ってはいても、やはり目が行ってしまうもので。 それでいて、じっと見ているのも悪い気がして。今度は無理に目を反らしてしまう。 腕だけであんなに痛々しいのだから、左半身全部ってどうなんだろうな。 銀さんは、どんな思いであの傷を見ているの、かな。 ふと、思ってしまった余計な事。 「あー、ダリー。暑くて昼寝もできやしねーや」 そんな時に、当の本人の声が聞こえたから、僕の肩はつい飛び上がった。 振り返ると、いつもの3倍はぐだぁっと死んだ顔になっている銀さんが。 みんな同じ。涼しいところを探して、ウロウロしているわけだ。 「何が昼寝だィ。もうお天道さん沈む時間だってのにさ。あんたの女は仕事帰りに打ち水まで手伝ってくれてるってのに、甲斐性ナシは何やってんだかねェ」 嫌味たっぷりに言うお登勢さんに、銀さんは「男の価値は甲斐性なんかじゃねぇ。心意気だ」とキッパリ。 呆れたようにお登勢さんはそれ以上何を言うでもなく、タバコの煙を空へ吹き上げた。 打ち水に惹かれたのか銀さんは、だらりとした歩みで店先のベンチに腰掛けようとする。が、ふとさんの姿を見て、そちらへと方向転換。 そして水を撒く彼女の傍らに立つと、肩でゆるみかけていたたすきを無言で結わえ直した。 「ありがとう」 「ずっとこーしてた方、涼しんじゃねーの」 「銀時こそその服、暑くない?」 「主人公はそーそー服装変えるわけにいかねーの。夏でも頑なに裸足ブーツなの。だから足クセーの、って悪かったなコラ」 一人で勝手にツッコんで話をシメると、銀さんは「あーあ」とベンチに腰掛けた。 その時、 「おねーちゃん」 小さな呼び声が聞こえて、みんながそちらへ注目した。 声の主は、さんの前に立ち、じっと彼女を見上げている。 5〜6歳といったところだろうか。通りすがりらしい少年。 「なぁに?」 不思議そうに返事したさんの腕を少年は指差した。 「それどうしたの?ケガしたの?痛い?」 彼が言っているのは、明らかにさんの傷跡のことだった。 どうしたの?きっと目にした誰もが心の中では思う疑問。 けれど大人はきっと口にはしない。子どもならではのストレートな言葉。 「大丈夫。もう治ったから全然痛くないのよ」 さんはそう言って笑うと、ほら、と左手を振って見せた。 でも、と言いかけたその子の後ろから、 「よしなさい!お姉さんに失礼でしょう?!」 母親らしき女性が、慌てた様子で襟首を引っ張った。 「だって、痛そうだったから」 不満げに少年は口をとがらすが、母親はさんに小さく頭を下げ、彼を引きずったまま足早にその場を去っていってしまった。 残された僕たちは、一瞬、沈黙。 「失礼なことなんか、なんにも無いのに。ねぇ?」 さんは僕らを振り返り、いつもと変わらぬ口調で、おっとりと微笑んだ。 そんな彼女にどう返して良いかわからず、笑顔だけで応えて。 それからなんとなく、ベンチの銀さんをチラリと盗み見てみた。けれど。 やっぱり死んだようにとろりとした目のままの銀さんの表情からは、何も読み取れなかった。 「開店の邪魔だよ。そんなとこでダラけてないでおくれ」 入口に暖簾をかけながら、お登勢さんが銀さんをシッシッと手で払う。 「んだよ、ババア。ケチくせーこと言ってんじゃ…」 面倒臭そうにそれに答える銀さんが、急に言葉を止めた。 その様子に、彼の視線の先を追うと。 さっきの少年が息を切らしてさんの前に走ってきたところだった。 小さく首を傾げてその姿を見つめるさんに、彼は「はい!」と何かを差し出す。 「これね、傷が治る薬草なんだよ。この葉っぱ、よく揉んで貼ったらね、痛いのも血が出るのもなんでも治るんだよ」 そう言うと、両手いっぱいの青々とした葉をさんの掌に落とした。 さんは、驚いたように目を丸くしたが、すぐにとてもうれしそうに笑って 「ありがとう。大事に使うね?」とそのあどけない顔を覗き込んだ。 誇らしげに胸を反らして笑う少年。 「オイ、坊主」 その微笑ましい光景に似つかわしくないダルい口調で横から突然口を挟んできたのは銀さんだった。 少年は怒られるとでも思ったのか、一瞬肩をビクつかせて銀さんを見る。 「これだからガキは考えが浅くて困るよ。このねーちゃんの傷はなァ、そーゆーんじゃねーんだ。重大な秘密があんだよ」 「ひみつ?」 興味津々と言った体で、銀さんへと一歩身を乗り出す少年。 それに応えるように、真剣な表情で顔を近付ける銀さん。 「お前誰にも言うんじゃねーぞ。言ったら消されっかもしんねーぞ」 潜めるように声のトーンを落とした銀さんに、彼は思い切り首を2〜3度縦に振る。 ていうか、何言ってんだろ…銀さん。 「アレはなァ…ヒーローの印だよ」 「ヒーロー?!」 「バッカ、おめー、声デケーよ。アレはな、地球征服をたくらむ悪者と最後まで戦った奴にだけあるモンなんだよ。不屈の精神を持った奴にしか許されねーモンなんだよ。いわばヒーローの証だよ。かっけくね?」 「…」 銀さんの訳わからない台詞に、少年が口をポカンと開けて黙った。 そして、ゆっくりとさんを振り返って、一言。 「…ねーちゃん、かっけー」 心の底からつぶやかれたその言葉に、僕はつい口元が笑ってしまった。 まったく強引な言い分だというのに。 すっかり信じ込んじゃったみたいだね。 いや、違うか。 強引だけど、嘘ではないから。だから信じられるのかもな。 さんの傷は、さんが自分を貫いた証だから。 自分で選んだ道を歩いて、遮られて、それでも歩こうとして、生きようとして。ただ、諦めずに。 なるほど。ヒーロー、ね。 あながち、嘘でもないか。 さんが、おかしそうに笑った。 かっけーでしょう?なんて、キラキラした目で傷を覗き込む少年に腕を見せながら。 さんはいつも、決して自分の傷を恥じようとはしない。 きっとそれは、銀さんが、さんの傷から決して目を反らしたりしないからだ。 無かった事にはできないその傷を、あるがままに受け入れているからだ。 「もう一つ、秘密のこと教えてあげようか?」 さんが、少年の耳元にかがんで、そっと囁いた。 すぐ横に立っている僕には微かに聞こえるけれど、ベンチの銀さんには聞こえない程度の小声で。 「なに?なに?」 「あのおにーちゃんもヒーローなのよ?」 「えっ!ほんとに?!」 「見てきて?おにーちゃんの腕にもね、これがあるから」 そう言ってさんは自分の腕を指し示す。そこには、火傷跡に混じって、三日月形の傷跡。 それを見るなり、少年は銀さんを振り返る。 そして勢いよくその左腕に飛びついた。 「うわ、なんだコラ、クソガキ」 驚いたように仰け反った銀さんの着物の袖をまくりあげて、彼は「ほんとだ!」と叫んだ。 「…ほんとだ」 そして僕もつい、声を漏らしてしまった。 銀さんの腕には、さんと同じ場所に三日月形の切り傷。 一瞬、少年の勢いに押されて一緒に驚いてしまったけれど。 よく考えてみたら銀さんだって傷の数なら全身至る所にハンパないわけで。 一つくらい似た形のものが似た場所にあっても、不思議な事ではないのかもしれない。 けれど、すっかり感嘆の眼差しで銀さんを見上げる少年は、 「にーちゃんもかっけー!」 と、不思議そうに眉を潜めるダメなオッサンをヒーローと信じて叫ぶのだった。 大きく手を振って夕暮れの道を帰っていく少年の姿が雑踏の中小さくなって。 ぐったりと座り込んでいた銀さんが、ふと立ち上がる。 何も言わず、万事屋への階段とは別方向に歩みを向けようとした彼に「どこ行くんですか」と声を掛ける。 「いや〜、アレだよ。暑い時はよォ、タダで涼める場所がいいだろ。例えばパチンコ屋とか」 「何言ってんですか!タダで涼んで帰ってこれるわけないでしょ!一昨日だって大負けして、食費もカツカツの有様なんですからね!」 「このクサレ天パが!よく堂々と言えたもんだね!んな金あんなら家賃払いなァァ!」 僕とお登勢さんから同時攻撃を受けた銀さんは怯んだように口元を引きつらせたが、すぐにウザったそうな顔に戻って溜息一つ。 「っとに小せーこと気にしてんじゃねーよ。最近の奴らはどいつもこいつも、わかちこスピリッツが足りてねーよ。嘆かわしいねェ」 「嘆かわしいのはてめーの頭だァァ!てめーは少し小さい事を気にしろ!」 お登勢さんの怒声がせっかく下がった温度を2〜3度上げる。 「…あんなヒーロー見たことないですよ」 僕がついつぶやくと、 「ほんとねぇ。どうしようもないヒーローねぇ」 と隣のさんがのんびりと、けれど意外にハッキリつぶやき返してきた。 「子どもの夢は壊しちゃダメなのよ?ヒーロー?」 さんから掛けられた言葉に、彼は渋々と言った表情で木のベンチに腰掛けなおす。 これだからヒーローは辛ェよ、などとブツクサ言いながら。 まったく。 ヒーローならヒーローらしく、もっとビシッとする割合を増やしてほしいもんだよ。 さんの撒く水の音が、再びぱしゃりぱしゃりと心地よく響く。 熱を冷ます、柔らかな音色。 今も消えずに立ち込める記憶の熱も、きっとこんな風に、いつしか少しづつ冷まされていくのだと。 そんな事をぼんやりと思う。 スナックお登勢の行燈に灯りがともった。 打ち水で迎えた夏の夜が、いつもより少しだけ優しくはじまる。 |