ミルクティー
思い出すのは、ちょうど一年前のクリスマスイブ。 その日は終業式で。 明日からは冬休みで。 ましてやクリスマスイブともなれば、生徒も先生も。誰もが何となく浮き足立って見える、そんな日。 けれど私はまるで足も気持ちも浮き上がらなくて。 これからやって来る長い冬休みを思うと、誰かが持ってきた教室の後ろの小さなツリーのように、キラキラした気分にはなれなくて。 長期休みは私の天敵。 一番会いたい人に、会えなくなってしまうから。 ただ一つ、当然のように会える理由。約束のいらない場所。 学校だけが、私と彼とを繋いでくれる。 そしてその人は今、終業式を終えて下校を始める生徒たちのはしゃいだ波の中、相変わらず一人浮いた空気を放って廊下に立っている。 くわえタバコで白衣のポケットに手を突っ込み、気だるげに若干傾いた立ち姿で。 彼は私の担任ですらない。ただの国語担当教師。 そして大勢いる彼の受け持ち生徒の一人でしかない自分。 授業のある日は朝からふわふわと落ち着かなくて。 授業のない日は、無駄に廊下を歩き回って。 少しでも、顔が見れたら。 少しでも、声が聞けたら。 ただ、それだけ。 それ以上は望むことなんか何も無い。望めないって、わかってる。 けれど休み中には、それ以上どころか、それだけのことすら望めない。 「銀八せんせー。冬休みどーすんの?」 「どーするもこーするも休みは休むに決まってんだろーが」 「遊びに行ったりしないの?」 先生の声と、それを囲む数人の女子の声が廊下の向こうから聞こえた。 慌てて帰り支度を済ませて教室から飛び出したというのに、その様子に、がっかり。 よいお年を、でも。また来年、でも。 お決まりの挨拶で構わない。 帰る前に少しでも、言葉を交わしたかったのに。 けれど、気持ちはきっと彼女たちも同じ。 冬休み前だもの。 いつも以上に先生と話していたいと思うのは、私だけじゃないんだ。 「先生、どーせクリスマスも一人でしょー?今日みんなで集まるから先生もおいでよ」 「あん?どうせ、たァ何事だコノヤロー。先生がクリスマスに一人なわけねーだろーが。ガキのパーチーに行ってる暇ァねーの。わーったらとっとと帰んなさい」 諦めて玄関へ向かおうと歩き出した途端、耳に入ってしまったそんな言葉。 えー、と不満げに漏らす女生徒たちに「じゃーな」と片手を上げ、先生は廊下をペタペタこちらに向かって歩き出す。 すれ違いざまに、目が合った。 ような、気がした。 足音はすぐに背後へと遠ざかっていく。 急いでいたから手に掴んだままだったマフラーを、いつもよりもぐるぐる巻きにして、白い毛糸に顔を埋もれさせた。 このまま下を向いていれば、きっと誰にも見られずに家へ帰れる。 今の、こんな顔を。 先生が、クリスマスに1人だなんて思い込んでいたわけじゃない。 ただ、知らずに済むならと目をそらしてきたのも事実。 なのに、どうして。 明日からしばらく会えないこんな日に。 よりにもよって、クリスマスイブのこんな日に。 そんなことを聞いてしまうんだろう。 間が悪い、って。こういうことを言うのかな。 裏門を出て、いつものバス停のベンチに座った。 バスはすぐにやって来て、数人いた生徒たちは足早に乗り込んで行ったけれど。 なんとなく立ち上がる気になれなくて。 私は、そのままそこに座っていた。 悲しい、とも違う。 辛い、とも違う。 ただ、なんだか、空っぽになってしまったかのように。 いくつかのバスを、やり過ごした。 羽のように漂う雪のひとひらが、目の前をゆっくりと通り過ぎる。 またひとつ、またひとつと視界を揺らして。 きれい、とぼんやり心でつぶやいた。 人も車も、ふと途切れたように消え失せた雪空の下。 瞬間の、無音。 「んなトコでよくボーっとしてられんなァ、オイ。ナマ足、冷えね?」 こんなに静かなのに。どうしてその気配に気付かなかったのか。 唐突に背中からかけられた声に、一気に遠くから引き戻されたかのように目の焦点が戻った。 聞き間違うはずなんてない、声。 振り返ると、呆れたようにこちらを見る気だるい表情。 「坂田先生」 「バスこねーの?」 通り向こうを眺めて、寒そうに肩をすくめながら先生が言う。 会えたことの驚きとうれしさと、先生がこれから過ごすクリスマスと。 頭の中がぐるぐるだ。 手も足も、力が入らないのは震えているからかな。 寒さなんか感じないのに。 「先生、もう帰り?」 「おー。やってらんねーじゃん。終業式くれー早く帰んねーとよ」 新しいタバコに火を付ける先生の横顔。 見つめるまつげに落ちた雪の欠片がほどけて、煙を吐き出す姿を一瞬霞ませた。 体中が痛くて、苦しい。 なのに、泣きたくなるくらいに暖かい。 この人を見ていると、どうしてそう感じてしまうんだろう。 理由なんてもうよくわからない。 理由なんていらない。 この人が、好き。 「早く帰らなきゃ、クリスマスだもん、ね」 つい口をついたのは、自分でも嫌になるくらい自虐的な言葉だった。 答えが怖くて顔を見れないくらいなら、言わなきゃいいのに。 「べーつにクリスマスだからってなんもありゃしねーけどな。酒飲んで寝てシメーだろ」 さっきとは違う答え。 「…デートは?」 おそるおそるその顔を見上げて、控えめに追求してみると。 「デートぉ?」 素っ頓狂な声を出して、先生は私の顔を見た。 そして少しの間の後、 「あー…ハイハイ。アレね。なるほど、ソレでコレな感じね。ハイハイ」 一人でいたく納得したらしい銀八先生は、微かに口元に笑みを浮かべた。 何がアレでソレなのか。さっぱり理解ができずそんな先生を見つめるだけの私。 「ねぇよ、クリスマスデートとか。金ねーし、クソ寒ぃし、相手もいねーし?でもホラ、あーでも言わねーと、先生人気者だし?」 モテる男はつれーよなァ、としみじみ溜息をつく先生に、ツッコミを入れる余裕はなかった。 さっきまで空っぽだった心は、先生の「ねぇよ」という言葉で一気に満杯。 望むことは何も無いなんて、嘘ばかり。 望んでいるんだ、結局。 だからこんなに、うれしいんだ。 こんなことが。 「何黙ってんの?つーか笑ってんの?」 こちらを覗き込む先生の言葉。 「なんでもないです。笑ってないです」 慌てて緩みがちな表情を引き締めると、先生は、ふ〜んと適当な返事。 そして手を突っ込んでいたジャケットのポケットから何かを引っ張り出して、無言で私の手に乗せた。 指先に、急な熱を感じて。 自分が随分と冷えていたことにやっと気付く。 それは、缶のホットミルクティー。 そのまま坂田先生は、私の前を横切り歩き出す。 ポカンとしている私を一度だけ肩越しに振り返ると、 「とっとと帰れよー」 それだけ告げて、先生の背中は曲がり角に消えて行った。 手の中のスチール缶が、熱い。 この熱だけでいい。 クリスマスは、もう、これだけでいい。 長い冬休みだって、怖くない。 しおれかけの心が急に立ち上がった、雪のバス停。 これが、1年前のクリスマス。 「え?そーだっけ?」 冷たい星の転がる夜空を、特に感慨無さげに見上げながら、銀八先生は首を傾げた。 やっぱり、覚えてないよね。 1年も前だし、生徒との通りすがりのやり取りなんて、覚えているわけがない。 「うん。これ飲んだら、思い出しちゃった」 手の中のまだ冷めない缶からは、優しく鼻先をくすぐる甘い湯気。 1年前と、同じ香り。 ふ〜ん、と相変わらず気の無い返事をしながら、先生は飲みかけのミルクティーを私の手からさらい、口をつける。 何も望まないなんて、やっぱりあの頃の私は嘘つきだ。 こうして隣にいられる今を、望んでいなかったはずがない。 望まないなら手放せと言われても、もうできるはずがない。 「寒ィな、オイ」 先生の腕が、ミルクティーを持ったまま背中から私を包み込む。 近付けば近付くほど、痛くて苦しくて、泣きそうなほどに暖かい。 それは、今も昔も同じ。 「」 「なに?」 「一応クリスマスだし。いーこと教えてやろーか?」 「なに?なに?」 意味ありげに、少し楽しげにそんなことを言い出す銀八先生に、つい反応。 「お前が乗る学校裏のバス停ってよ。東棟の3階と4階の間にある踊り場の窓からよーく見えるって、知ってた?」 「…」 校舎東棟の3階と4階の、間。 それは、校内でも1、2を争うほどに通り馴染んだ場所。 何故なら、そこを上った先、東棟4階には、国語科準備室があるから。 踊り場の小さな窓は少し高い位置にあって、私の身長では少し背伸びが必要だから、何が見えるかなんて知らなかった、けれど。 バス停が、見えるって。 一気に意味を理解して、私は銀八先生を勢いよく振り返った。 見えるって。 バス停って。 私の思ったことを察知したらしい先生がニヤリと笑う。 「クリスマスイブに、1人でバス何本もやり過ごしてボーっと座ってる女子が目立たねーわけねーやなァ」 この人は、本当に。 覚えていないなんて。 そーだっけ?なんて。 嘘つきだ。私以上の大嘘つき。 「…見られてたんだ」 あの時のぼんやりした自分の姿は傍目からどう見えていたのか。 なんだか恥ずかしくなって、背後から回されたままの先生の腕の中で下を向く。 でも、じゃあ。 「見てたから、通りすがりに声かけてくれたの?」 「通りすがりっつーか…」 先生は一旦言葉を切って、私の頭の上に顎を乗せた。 「知ってた?俺、バイク正門側に停めてあっから、あのバス停通りすがりでもなんでもねんだけど」 「…」 2度目の衝撃。 私の乗るバス停は裏門側にあって、毎日そこから帰るけれど。 裏門から銀八先生が帰っていくのなんて、たしかに一度も見たことがなかった。 待って。ちょっと待って。 「じゃあ、なんで、通ってくれたの?」 その答えが聞きたくて。 どうしても聞きたくて。 一言一言、噛み締めるように尋ねてみた。 ふと先生の腕が緩んだ、と思ったら、向かい合わせになる形で抱きしめ直されて。 強い力に、もう顔を見上げることもできなくて。 「さ〜?なんででしょうねェ」 結局は、いつものように呑気な声ではぐらかされるだけだった。 コート越しに感じる先生の体温と、喉を通るミルクティーの熱。 振り出した雪が、スチール缶の上でほどけるように溶けた。 寒ィはずだよ、と、ついた先生の溜息までが、頬をかすめて、暖かくて。 今度こそ、本当に。 ほかには何も望まない。 1年越しの、雪の中のクリスマス。 + |