教育実習生 坂田銀八
放課後の銀魂高校、国語科準備室。 ノックをすると「あー?」といつも通り、ユルい返答。 そうっと引き戸を開けば、傾きかけた陽が作り出す淡色が真正面の窓から足元まで伸びている。 その中で同じ色に染まりながら、机に足を放り出してだらしなく腰掛ける白衣の背中。 「銀八先生、課題集めてきたよ」 こなした日直の仕事を差し出すと、 「そこ置いといて」 あくまで視線はジャンプのまま、両足が放り出された机の端っこが顎で示される。 言われた通りにプリントの束を乗せるべく机に近付いた時、不意に先生の足がそこから下りた。 持っていたジャンプを伏せると机の引き出しを開き、何やら雑多な無法地帯から迷わず白いメガネケースを選び出す。 そして中からメガネ拭きを取り出すと、 「なんっか今週のジャンプ印刷ワリィと思ったら、メガネがきったねーんだな」 なんて言いながら、外したメガネを陽にかざしてこすり出す。 その脇にプリントを置くと、ふと、開いたままのメガネケースが目に入った。 先生が今手に持っているシワくしゃのメガネ拭きとは別に、中にはもう1枚、きれいにたたまれたメガネ拭き。 「こっちの方がキレイなのに、使わないの?先生」 私がソレを持ち上げると、 「いんだよ、ソレは」 銀八先生は横顔のままあっさりと答えた。 いいって?重ねて尋ねようとした時、4つ折りになった無地のメガネ拭きの内側に、何かが見えた。 模様?違う。 つい開くと、そこあったのはびっしりと並ぶ手書きの文字。 「『採用試験がんばって』?」 一番上の文字をつい声に出して読んだ。 「何見てんだ、コラ」 銀八先生の視線が掛け直したメガネ越しに、ようやくこちらに向けられた。 「ごめんなさい。ダメだった?」 勝手に読んでしまった事を怒っているのかと慌てて顔を上げたが、 「いや、別にダメじゃねーけど」 と、特にどうでも良さそうな答えが返ってきてまずは一安心。 「これ、寄せ書き?」 「そー」 「卒業生の?」 「いんや。教育実習ん時」 教育実習? それはつまり、先生が大学生の頃ってこと? 先生じゃない頃の先生なんて、なんだか想像がつかなくて。つい口元が笑ってしまう。 「何笑ってんだ、おめーは」 「だって、なんか。ていうか、どうしてメガネ拭きなの?」 「知らねーよ。あのバカ共、サプライズな演出でもしたかったんじゃねーの。その程度で俺を泣かせようたァ、まだまだプロデュースが甘ぇっつーの」 面倒臭そうに言い放つ銀八先生に、また笑いそうになる口元を抑える。 そんなこと言って。 こうして今も大事にとってあるクセに。 本当は、うれしかったクセに。 「見てもいい?」 今度は確認してみたら、 「別になんもおもしれーこと書いてねーぞ」 と顔をしかめられたけれど、ダメとは言われなかった。 『糖尿注意』 『教師になったらたまにはマトモな授業してね、銀八先生』 『また遊びに来てもいいよー』 所狭しと連なる一つひとつ違うメッセージは、彼がどんな教育実習生だったのか、まるで目に浮かぶようで。 実習なんて、ほんの短い期間だったはず。 なのに「銀八先生」と呼ばれている先生が。 こんなメッセージをもらっている先生が、不思議なほどにうれしくて。 まるで自分の事のように夢中になって読み耽っていたメッセージの中。 左下隅の小さなかわいらしい文字。 「…『大人になったら彼女再応募しに行くね』…?」 「…」 つい声に出した1行に、再びジャンプを読み始めていた銀八先生の背中が反応しつつも黙る。 何、その、意味深なメッセージ。 ていうか、再応募、って。一度応募されたってこと?だよね。 「ハイ、終了〜」 後ろから伸びてきた先生の手が、私の手から寄せ書きをさらっていく。 「…隠した」 「いやいやいや、隠してねーし。隠すようなやましいこたァ何一つねーし」 「だって再応募…」 「いや、違うから。実習先で、しかも生徒に手ェ出すほど俺がっついちゃねーから。そんくらいの節操あるから」 「…今は?」 今の、私との事は? 私だって生徒だけれど。 手を、出してくれたのに。 なら、それはどうして? 「バーカ」 白衣のポケットから取り出したジッポを開こうとする手を止めて。 火の無いくわえタバコのまま深々と溜息をついた銀八先生の手が、私の頭に乗った。 「おめーは例外」 うつむいた頭の上から降ってくる声に、心臓が震えた。 例外。 それは、もしかして『特別』と同義語なんだろうか。 そう自惚れてしまっても、いいんだろうか。 「…『銀八先生はいつか手ェ出しちゃいそうな気がします』ってか」 「え?」 突然、独り言のように銀八先生がつぶやいた。 意味がまるでわからなくて、顔を上げると。 近付いてきた先生の唇が、一瞬だけ、私の唇に触れた。 至近距離にある先生の顔に問い掛けの言葉を失ってしまった私を見て、口元で小さく笑う。そして、 「悔しーけど言うとおりになっちまったわ、宇都っち」 またわからない事を言って、尋ねようとする私を遮るように、長い指にぐしゃぐしゃと頭を撫でられた。 教育実習生坂田銀八が、どんな人だったのかは知らないけれど。 きっと、今と何一つ変わらない彼だったに違いない。 いい加減で、だらしなくて、面倒くさがりで、甘党で、ヘビースモーカーで。 でも、ごくたまに、やる時にはやってくれる。 そんな、教育実習生だったに違いない。 きっと、教室の片隅でぼんやり空を見て。 何も見ていないような目で、本当は、一人一人を見ていて。 元通りたたみ直したメガネ拭きを、古びて閉まりの悪いメガネケースにしまって。 今こうして隣にいる彼が歩いてきた自分の知らない時間に、そっと想いを馳せてみる。 そんな、放課後のこと。 |