国語科準備室






「つーことで今日からおめーらの国語担当する坂田銀八でーす。好きな言葉は『自習』。嫌いなものは学校行事のラストに感極まって集団で泣き出す女子と、もらい泣きして草食系をアピールしようとする男子でーす」

2年生となり初めての国語の授業。新しい国語担当教師は、咥え煙草の煙を口から漏らしながらそう自己紹介した。とりあえずクラス中が口をポカンと開けて静まり返ったのを、よく覚えている。
そしてその日の授業は「見ねェ顔ばっかだから一人5分で爆笑自己紹介よろしく〜」と生徒に無茶振りをし隅のパイプ椅子に腰掛けると、後はずっと熟睡していた。
とんでもない先生に当たってしまった。誰もがそう思ったに違いない。

この校内で群を抜いて目立つ白衣の教師の事は、誰もが顔と名前くらいは知っていた。けれど1年生の時には授業での関わりが一切無かったから、正直彼のあんな感じに免疫が無い者ばかりだった。
そのため、初日の授業の前から飛び交っていたのはどこまで本当かわからないような噂ばかり。バックに大物がついていてクビにならずに教師を続けているだとか、過去に幾度も問題を起こして処分を受けているだとか、校外で暴力沙汰を起こして警察にしょっぴかれたらしいとか、あれ実は煙草じゃなくてペロペロキャンディらしいとか。もうとにかく色々。
けれど、どれもこれも発祥の理由は何となく頷けるものの、あくまで噂でしかないだろう事は何の根拠も無いままに感じていた。ほんの幾度かのやり取りしか経験の無い自分。けれど、そのほんの幾度かでも巻き込まれてしまう彼の空気。
それは非常にマイペースで、やる気の欠片も無くて、周囲の事などまるで見ていなさそうで。なのに、何故だか落ち着く。そんな空気。

初日以降も坂田先生の授業はまともな事の方が少なく、気だるさを増すばかりだった。
今日もそう。『自習』という好きな言葉を書いたっきり黒板の前には立とうともせず、相変わらずパイプ椅子に座って後ろ頭で手を組む彼を前から3番目の席でチラリと盗み見た。眠っているのかと思えばその目はぼんやりと空に向けられていて。ついそんな横顔を眺めていたら、不意に視線を動かした彼と目が合ったから慌てて下を向いた。
教室でも廊下でも。彼を目で追ってしまうのは、いつの間にか癖になっていた。多分1年生の時からずっとだ。
けれどその癖に自分で気が付いたのは、こうして教室で会う時間が出来て、距離が近くなってから。気付いてからは、今度はなるべく見ないようにした。国語の時間は、なるべく下を向いて過ごした。
そんな癖をあの人に悟られないように。
自分の気持ちから、逃げるように。






ある日の6時間目の国語の授業。
授業終わりの挨拶の後、唐突に坂田先生の口が呼んだのは私の出席番号だった。
今日やったプリントを集めて準備室まで。
彼から言い渡された指令は、たったそれだけ。
なのに、自分でもびっくりするほど緊張で頭が真っ白になった。
プリントを抱えて歩く放課後の廊下。国語科準備室が近付くにつれ歩みの鈍る足と、やけに落ち着き無く前髪や襟元を気にしてしまう手が自分でも不思議でならなかった。



「失礼しまーす…」

4階の片隅。『国語科準備室』と書かれたプレート下の戸をノックし、呼び掛けと共に引き開けた…つもりだった。けれど、開かない。
建て付け悪い古い木戸は、ほんの数センチの隙間が開いた後はただガクガクと揺れるだけで、いくら引いても開かなかった。
左手のプリントを小脇に抱え、両手を使って格闘していると。
不意に引いていた戸が軽くなり、一気に視界が開けた。

「コツあんだわ、この戸。力任せにしねーで優しくしてやって」

すぐ真上から降ってきたそんな言葉と唐突に目に飛び込んできた白衣の胸元に、つい1歩後ずさった。
そんな私に気付きもしない様子で彼は「クソ校長、お前しか使ってねーのに金がもったいねェとか言って直してくんねーんだよな。公共の場である学校に俺しかマトモに開けらねー戸があるっておかしくね?つーかアイツの触覚がおかしくね?」などとぼやきながら自席に戻り、こちらも古そうな軋みを上げる椅子に腰掛ける。そして当たり前のようにジャンプを手に取り、開いて数秒。ようやく気付いたように、
「で?なんだっけ?」
と尋ねてきた。

「プリント、集めてきました」
「あ〜、持って来いって言ったっけか、そういや。うわ、よく考えてみたらメンドクセーな。持って帰って自己採点って言っときゃ良かったなオイ」

今度はそんな事を言い出すから、差し出したプリントの行き場が見つからず困り果ててしまう。
え?え?どうしたらいいの?コレ。
まぁいいや、そこ置いといて。先生はあくまでマイペースに顎で机の端を示した。
ホッとしてプリントを乗せると、彼は再びジャンプに視線を戻した。
使命を果たして、2、3歩後ろへ下がって。そんな彼の背中を見つめてみる。
どうしてだろう。どうして、この背中から目が離せないんだろう。
どうして、ここから足が動かないんだろう。
どうして、何か話さなきゃ、なんて必死でここにいる言い訳を探しているんだろう。
もう用事なら済んだはずなのに。
けれど、探しても探しても。何を話していいのかがわからなくて。
天気がいいですね。ジャンプおもしろいですか?授業の質問があるんです。
焦れば焦るほど頭に浮かぶのは、どれも本当に話したいこととは違うとってつけたような話題ばかり。
他の先生とならもっと普通に話せるのに、どうしてこうなってしまうのか。なんだか、苦しくて、息が詰まりそうで。

「突っ立ってねーで座れば?」

不意に、背を向けたままの先生がそう言った。視線は、相変わらずにジャンプのまま。

「…いいんですか?」

つい、驚きがそのまま言葉に出た。そんな事を言われるとは思ってもみなかったから。

「ガッコーは公共の場だからねェ」

当たり前のように、先生はそう返してきた。
予想外の展開に竦む足。埃を被った本棚や、少しだけ色を変えだした窓の向こうの空や、動かない白衣の背中や。どうして良いかわからず、あちこちに目をさまよわせた。もちろんそのどこにも正解など書いてはいなかったけれど。諦めて自分で自分の心を決めて、思い切って彼の言う通り目の前の小さなソファに腰掛けた。
けれど、腰掛けてから後悔。
結局、何を話していいかわからない事には変わりない。
座ったくせに、このまま黙っているんじゃおかしな奴だと思われる。
どうしよう。
どうしよう。

「でー?」

そんな私に気付いてか気付かずしてか。先生がページを1枚めくりながらそう尋ねてきた。

「え?」
「なんかあった?」
「……」

急に振られた話題に返す言葉が出ず黙ってしまった私の方を、先生が首だけで振り返る。

「んだよ。そんな言いにくいこと?担任のモジャ毛数学教師にセクハラでもされてんの?」

私は慌てて首を振った。

「されてないです、何も」
「じゃあアレだろ。座薬買いパシリさせる日本史教師がいて辛い、とかだろ」
「パシってないです。大丈夫です。あの、別に悩みとかないです」
「ふーん」

じゃあ何で座ったんだ、と今度は言われるだろうか。
自分の答えに自分で焦って、どう説明したらよいのかと口をパクつかせていると。

「なら別にいんだけど。お前いっつも下ばっか見てっからよォ。悩ましいツラで」
「えっ」

それは十分過ぎるほど自覚のある事だっただけに、否定の言葉もごまかしの言葉も何も出てこなかった。
自分でも言葉にすらできない、まだ掴みかねている煙のように形も実態も無い想い。知りたいのに知ることを拒んでいる想い。そこから目を反らしたくて下ばかり見ていた。けれど、気付かれていたとは思わなかった。

「そんなに悩ましい顔してたかな…」
「つーかお前顔に出るよな。テストん時とか、わかんねーのか楽勝なのかお前が一番わかりやすい」
「ええっ、そうなの?」
「俺のことも時々珍しいモン見るような目で見てるもんなァ、オイ。何?こんな人が教師だなんて日本の教育は終わったわ、的なアレ?」
「違います!」

自分でも驚きのスピードで切り返しの言葉が出た。
何が違うのか、なんの根拠も無いのに否定の言葉が先に出た。
でも、そんな事を思って彼を見た事は一度も無い。坂田先生に対して驚く事も呆気にとられる事もあるのは確かだけれど。こんな人、なんて思ったことは無いから。
先生は、さすがに意表を突かれたように黙ったまま椅子を回してこちらに向き直った。
けれど、私を見て小さく笑う。

「何自分で言って自分でビックリした顔してんだよ」
「…つい言っちゃったけど、何が『違う』のかわかんなくなってきちゃったから」
「何、その掌の返しよう。ツンデレならぬデレツン?意外なドSぶりに俺の方がビックリだわ」

呆れたような先生の顔に、笑ってしまう。最初の緊張は、いつの間にかどこかへ行っていた。
この人は、まるで何も見ていないような目をして、何も興味なんて無いような顔をして。けれど、ちゃんと見ているんだ。居眠りしたり空を見たりジャンプを見たりしながら、それでも生徒をちゃんと見ている人なんだ。
なんだか嬉しくなった。意外だとは思わなかった。やっぱり、とそう思っただけだった。

「ま、今時の女子高生の頭ン中なんか、俺ァよくわかんねーけどよ」

再び椅子を回してジャンプに目を落としながら先生が言う。

「ウダウダ座って考えて答えが出るのなんざテストくれーのモンだろ。考えんのやめて体が動くまんまに任しとくのもたまにゃあいーんじゃねぇの?そーやって、つい言っちゃったり、つい顔に出ちゃったりしてるみてェによ」

私は黙って、その背中を見つめた。
体が動くままに。つい、動いてしまうままに。
ああ、そうだ。
私はこうして、見ていたいんだ。
遠くたっていい。届かなくたっていい。
この背中を、いつだって見ていたいんだ。
例えいつか、たくさん泣くことになっても。
今はただ、こうしていたかったんだ。

「…うん。そう、します」

それは、一つの決意表明。
生まれてしまった想いと向き合うための、自分自身への決意表明。
私はソファから立ち上がった。
傾きかけた陽を透かす銀色の髪が、きれいで。好きだなぁ、と思った。それ以上の言葉は浮かばなかった。うんそうだ、好きなんだ。もう一度心の中で宣言。そうしたら、不思議なほどに心が軽くなった。
それは今日だけかもしれないけれど。
辛くなる日も来るだろうけれど。
日ごと育つ想いを押し込めておくよりずっといい。

「先生、ありがとう」

準備室を出る前に振り返りそう声を掛けると、彼は背中のまま片手を上げて返事してくれた。

…そんな、清々しい気持ちで清々しく立ち去ろうと戸に手をかけたのに。
建て付け悪い戸は、帰りも結局開かなくて。
いつまでもガタガタやっていたら、後ろから伸びてきた先生の手が軽く戸を引き開けてくれた。
なんだか格好悪いやら、背後に立つ先生との距離がいつになく近いやらで。頭の中は来た時と同じく真っ白に逆戻りで。
私は、もつれそうな足で急いで廊下に飛び出した。
2、3歩進んでから挨拶もしなかった事を思い出して振り返ると、まだそこに立っていた先生が「落ち着いて帰れよ〜」と私の慌てぶりを見透かしたような楽しげな顔でこちらを見ていて、もっと何も言えなくなってしまった。



いつかあの戸を、坂田先生の次にすんなりと開けられるようになるだろうか。
大それた願いを捨てずに抱えて。
今はただ、歩くだけ。
思いがけず強い向かい風の帰り道を、明日の国語を思いながらただ、歩くだけ。