銀八先生は、よく、ぼんやりと空を眺めている。 それは決まって、よく晴れた日の青空。 たとえどんなに騒がしい自習中の教室でも。 生徒に囲まれながら歩く休み時間の廊下でも。 昼寝もできやしねぇ、とぼやくにぎやかな昼休みの屋上でも。 空を見上げている時の彼は、一人だ。 どんな喧騒からも浮いたように。 そんな先生を見る度に、何を見ているのか知りたくて、私も空を見上げていた。 そして、知った。 空は青くて美しいほど、高くて遠いこと。 ほんの少し哀しくて、でも優しい気持ちにさせること。 そしていつのまにか、私も、無意識に空を見上げるクセがついていた。 銀八先生は、ところ構わず煙草を吹かす。 生徒の前とか、禁煙ブームとか、そんなのお構いなし。 最初は驚いた。 なんて先生だと思った。 誰も何も言わないことが不思議だった。 でも、気付いた。 立ち上る煙がからみつく先生の銀髪が、とてもきれいなこと。 煙の向こうで隠し気味に、生徒一人ひとりを見ていること。 そしていつのまにか、どこからか煙草の香りがする度に、軽い眩暈を覚えるようになっていた。 人の記憶は、香りに敏感。 先生が後ろを通ると、見なくても誰だかすぐわかる。 通り過ぎるとすぐに気付いて振り返る私に、先生は怪訝顔。 なんでわかる?とでも言いたげ。 でも、校内でそんな香りがする人、先生しかいないでしょ。 もう今では、ごく当たり前のように、振り返る私を見つめ返してくれる先生がいる。 いつのまにか、灰と煙の香りは、私の何より焦がれる香りになっていた。 銀八先生は、昼休み、購買横の自販機にやって来る。 お目当ては一つ。小さな紙パックのいちご牛乳。 およそ、そんなかわいらしい飲み物が似合わない気だるさでブラブラとやって来て、白衣のポケットから出した100円玉を入れる。 その姿を見かけると、私はいつもそぉっと近付き、後ろから先生より早くいちご牛乳のボタンを押す。 重い音をたてて落ちた紙パックを拾い上げ、先生は私の方をちらっとだけ見る。 そして、「わかってんじゃん」とか言って、まだブラブラ戻っていく。 時には、 「わかってねぇな。俺ぁ今日はもうコーヒー牛乳の口になっちゃってんの」 と眉を寄せて、頭を振る。 そして、望みのものを買い直し、「責任とれよ」と私の手にいちご牛乳を置いていく。 初めてもらった時、なんて甘ったるいモノを飲んでいるのかと思った。 お昼ごはんのおにぎりとの相性は激しく最悪だった。 でも、いつのまにか、昼休みには、あの自販機でいちご牛乳を買ってしまっている自分がいる。 いつのまにか、甘ったるい優しい味に、癒されてる自分がいる。 そして今日も私は、100円玉を握って、あの自販機へと向かう。 廊下の窓から見える、抜けるような青空を眺めながら。 自販機の前で、いつものボタンに手を伸ばす。 その私の先を越して、後ろから出てきた拳が荒くボタンをたたいた。 ふわり、と苦い煙の香り。 落ちてきたいちご牛乳を拾い上げ、私は横を見上げる。 メガネの向こうの死んだ瞳が私を見下ろす。 「わかってるじゃん」 私の言葉に先生は、 「たりめーだ」 とだけ言い残し、スリッパの音を響かせながら歩いていく。 先に買っていたらしいいちご牛乳のパックを片手に、窓から見える青空を気だるげに仰ぎ見ながら。 あの背中が、いつも私を追いかけさせる。 近付きたくて、ただそれだけ思っていたら、いつのまにか先生の日常は私の日常になっていた。 見えなくなるまで、背中を見つめるクセがついたのも、そう、いつのまにか。 始まりなんて、いつだって いつのまにか
|