隙間の風






春を告げる南風が、少し強く吹く夕暮れ時。

バイクで万事屋への帰り道。
道の向こうから、よく知った姿が歩いてくるのが見えた。
左手に杖、右手に抱えるほど大きな花束という出で立ちで、俺を見つけて笑う。

「まだ働いてんのかよ」
バイクを停めて声をかけると、
「この花束を角の酒屋さんまで届けたら今日はおしまい」
と、最近ではすっかり花屋『ヘドロの森』の接客担当となったが答えた(なんせ店長、接客向いてねーから)。

「酒屋のハゲオヤジ、どーすんだよ花束なんて。気持ちワリーな」
「奥さんの誕生日なんですって」
「似合わねーぞって言っとけ」
「ツケ払え、って言い返されちゃうよ?」
クスクス笑う。そーいやそうだった。

乗るか?と聞いてみると、「すぐだから大丈夫」と、予想通りの返答。
そしてまたそれぞれ、向かっていた道へと別れる。





万事屋の前にバイクを停め、メットを外す。
と、その横を騒がしく走り過ぎていく人々が目に入った。

なんだ?

不思議に思いながらも階段を上ろうとした時、店先から通り向こうを見ているお登勢ババアとキャサリンに気付いた。

「なんかあったのかよ」
「火事だとさ」
「火事ィ?」
言われて今来た道を振り返る。
少し離れた屋根の陰から黒い煙が上っているのが見えた。
「近くね?」
「ああ、角の金物屋らしいよ」

角の金物屋って、たしか。
ハゲオヤジの酒屋の斜向かいじゃねーか?

「あんたも気をつけとくれよ。春は空気が乾燥してて火事になりやすいんだから」

ババアの話を最後まで聞く間はなかった。
足はもう、煙の上る方へと走り出していた。




間近で見ると思った以上に大きい火の手が、古い木造の金物屋を飲み込みかけていた。
既に火消し達が駆け付け、その炎に立ち向かっている。
後ろには焼け出されたらしい住人たち。
怪我はない様子だ。
通りは、近所の火事を不安そうに見守る人々や、他人事ヅラで騒ぐ野次馬でごった返している。
そんな中、風にささやかにそよぐ頭。
酒屋のオヤジ発見。

「おい!オヤジ!」
「銀さん。どうした」
オヤジが呑気な声で振り返る。
「花届けに来た奴どこ行った?」
「ああ?彼女なら花束置いて帰ったんじゃねーかな。火事で騒がしくなっちまったから、よくわかんねーけど」
「よくわかんねーのかよ。使えねーよ。マジ使えねーわ、オヤジ」
姿を探して人波に目を走らせながら言い捨てると、
「うるせー!こっちは目の前燃えてんだ!それどころじゃねーんだよ!つーか、てめーツケ払え!」
オヤジがキレ出す。
つーか、やっぱりツケかよ!
「そっちのがそれどころじゃねーだろーが!大体どのツラ下げて、花とか買っちゃってんだ?!てめーなんかナンバーワンにもオンリーワンにもなれるかぁ!ハゲ!」
「んだと、コルァ!ハゲだってアメンボだってみんなみんな生きてんだぞぉぉ!」
いや。ハゲは腹立つが、それどころじゃねーし。

来た道を、また引き返す。
走り出した背中に、「ツケ払えや白髪ぁぁ!!」という声が響くが当然、シカト。

つーか、てめーはツケより火事を気にしろや。



人の流れに逆らい、走る。
ふと道の真ん中に転がる、見覚えのあるものが目に入った。
さっきは気付かなかったそれは、細い、杖。
拾い上げて、あたりを見回す。

見つけた。

建物と建物の隙間。
細い路地に、小さな影がしゃがみこんでいた。
膝に顔をうずめて、震えながら。
やっぱり、か。



俺の声にの肩が反応する。
ゆっくりと上げた顔には血の気が無く、微かに呼吸を乱す唇は、白い。
天人に襲われたあの日以来、こいつは、火や大きな音に過敏なまでに反応する。
一時期はマッチを擦ることも、料理に火を使うこともできなかった。
それを思えば、今は格段に良くなったと言える。
だが、やはり、あんな火事を目の前にしては、記憶に根付く恐怖心が蘇るのだろう。

「ごめん なさい。火が、見えて」
途切れながら、言葉を紡ごうとする
「いいから。わかってるから、黙っとけ」
俺は同じくしゃがみこみ、後ろからを抱きしめた。

離れていた間、いつもこうして一人で震えながら乗り切ってきたのかよ、お前は。
実際は俺の知らねー誰かが側にいたのか、んなことはわからねぇ。
けど、1人でやり過ごそうとするクセがついているように思えてならねぇんだよ、俺には。
こうして俺が近くにいるはずの、今でも。

の手が、俺の手を掴んだ。
確かめるように。

「ちゃんといるから」

の体をこちらに向け、正面からきつく抱きしめ直す。
側にいられなかった時間が、こいつを一人にした時間が、少しでも埋まることを願いながら。

「俺ァ、どこにも行かねぇからよ」



炎を煽る春風が、薄暗い路地にも吹き込む。
風が抜ける僅かな隙間もこいつとの間に作らないように、俺は腕に力を込めた。