はじまりの日






始まりは、いつだったのだろう。

その線引きはとても曖昧で、ぼんやりとしていて、自分でもよくわからない。
はっきりそうだと気付いた時にはもう既に始まっていたのだろうし、それどころか、しばらくは気付かないフリすらしようとしていた。
だって、怖かった。
芽生え始めた気持ちなど見ないようにして、やり過ごしておきたかった。
だって彼は、『先生』なのだから。


初めて彼を見たのは入学式の日。
真面目な顔でパイプ椅子に座る先生たちの列の中、一人隠そうともせず大欠伸をしながら白髪頭を掻く彼は、壇上から思い切り睨み付けている校長先生や訝しげに眺める父兄などまるで気に留めていない様子だった。
入学式が終わり通常の学校生活が始まると、1年生の授業担当ではない彼の姿を見る事は滅多に無かったが、時折廊下ですれ違えば、咥え煙草によれた白衣。やる気無く響くスリッパの音。メガネの奥で感情無く淀む目。
その教師とは思えぬ姿になんとなく「怖い人なのかな」なんて想像をしてしまって。いつも、目が合わないように下を向いて通り過ぎていた。
なのに、不思議と彼が歩くと生徒達は側へと集まる。
先生また二日酔い?ジャンプ見せて先生。ねぇ坂田先生。銀八先生ってば。
対する彼の返答は、いつも「あー?」とか「うるせーな」とか実にかったるそうで、うざったそうで。けれど、どことなく、楽しそうで。
坂田、銀八先生、か。
すれ違いざまにこっそり振り返ると、廊下の向こうに遠ざかる白い背中が残した煙草の香りが、不思議なほど強く記憶に残った。







ある日の昼休み。
廊下の突き当たり。非常階段へ続く重いドアを押し開けた。
吹き込む微かに生ぬるい風。目にかかった髪を払って、硬い音が響く踊り場に足を下ろす。
手を離したドアがゆったりと外の空気を巻き込みながら閉じる。重々しい音と共にぷつりと断たれる廊下の賑わい。
ふぅ、と息を一つ吐き、後方の景色を振り返った。
時々教室を抜け出して訪れるここは、密かに気に入っている場所だった。
午後の日当たりが良くて、この階から見える校舎脇の眺めは、いつも実に穏やかで。
今日見えるのは、すっかり葉だけになった桜の代わりに、階段下の芝生に散らばるタンポポの山吹。そして。
一つ上の踊り場の角。視界の片隅に映った白い、ふわりと揺れる、綿毛のような。
驚きで、つい、ビクリと肩が上がった。
坂田銀八、先生。
耳で聞き憶えただけの名前を、心の中でつぶやいた。
鉛色のコンクリートに白衣の背をもたれて後ろ頭で手を組んだ彼は、どうやらお昼寝中のようだった。
そうっと踵を返し、閉じたばかりのドアへと向き直る。音を立てないように、ノブを回して。ゆっくり、そうっと。

「何逃げようとしてんの」

いきなり背中から掛かった声。もうじき回し切るはずだったノブが手から離れて、派手な音と共に元の位置に戻った。
振り返ると、さっきと同じ体勢のまま目だけを開いてこちらを見ている坂田先生。

「…すいません」

起こしてしまった事を怒っているのかと、つい小声で謝ると、彼は返事の代わりに両腕を伸ばして欠伸を一つした。

「…昼休みってもー終わった?」
「まだです。あと15分くらい」
「なんだ。じゃまだ20分は寝れんな」

そのプラス5分は一体何なのか。わからなかったが、尋ねるのもためらわれて。とりあえず校内に戻るべく再び彼に背を向ける、と。

「だから何で逃げんのよ」

もう一度、止められた。

「え、あの、何となく来てみただけなので…。誰もいないと、思って」
「学校は公共の場だし?別に遠慮するこたァねんじゃねーの?気に入ってんだろ、ここ」
「え?」
「お前、前にもここでボーッとしてたろ」
「…」

そう。坂田先生とここで会うのは初めてじゃない。
やっぱり昼休み。まだ、あの桜が満開だった頃。この階段に座って、桃色が溶ける空を眺めていた。あんまり綺麗で、心地良くて、気持ちが浮き立って。開いたドアの音にも気付かず、『何してんの?』と背後から掛けられた声に『桜が綺麗で…』と、浮かれた表情のまま振り返ってしまい、固まったのを覚えている。そこでドアの隙間から顔を出してこちらを見ていたのが、坂田先生だったから。彼は、『ふーん』とどうでも良さそうな返事をして桜を数秒眺めた後、無言のまま扉の向こうに消えていったっけ。
またここで会ってしまった事にも驚きだが、何よりもそんな小さな出来事を覚えていた坂田先生が驚きだった。

「ここ滅多に人来ねーし。一人になりてー時にはいいわなァ」

メガネの奥で薄く開かれたその目に、何だか見透かされているようで。
学校は楽しいけれど。気のいいクラスメイトたちは大好きだけれど。
どうしてか、ふと、こんな風に賑わいから離れてみたくなる時があること。
自分でもよくわからずにいる、そんな気持ちを、奥底まで見透かされているようで。
なんだか、何も言えなかった。

「ま、座れば?」

再び目を閉じて組んだ足を揺らしながら、坂田先生がそう言った。
口調は軽いのに。低い、落ち着いた声。
不思議と、こんな僅かなやり取りだけだというのに、彼に対する『怖い』という印象は消えかけていた。言われるがまま、そこから一つ下がった段に腰掛ける。
腰掛けた…はいいが、何となく気になる上段の気配。
そうっと見上げてみると、踊り場で微かに揺れる白衣の裾が見える。どうやら再び眠りに入っているらしい。微かに、憶えのある香りを感じた気がした。風に乗って上から流れてくる、苦い香り。

しゃらしゃらと頬を撫で髪を梳く昼下がりの風。
なんだろう、この事態は。この、よくわからない先生と、昼休みの非常階段。よくわからないのに、どうして落ち着いているのだろう。ああ、そういえば私は、彼が何の先生なのかすら知らないのだ。それなのに。
でも、非常階段は静かで、タンポポの色は優しくて。午後一の日本史はたしか小テストだったけれど、でも、まぁいいか。
何だかこちらまで眠くなりそうに、緩やかな陽気と空気。
心地良く揺られていると、微かにドアの向こうからチャイムの音が聞こえた。
予鈴だ。一気に現実に引き戻されて慌てて立ち上がるが、坂田先生はまるで気付いていない様子。

「…坂田先生?」

階段の下から呼び掛けてみる、が…反応無し。
少し迷ったが、坂田先生が眠る踊り場まで階段を上ってみる。覗き込んでみると、どうやら熟睡中らしい。

「坂田先生?」
「…ああー?」

ようやく声は返ってきたが、その目は未だ開かず。

「あの…予鈴鳴りました」
「ああ…そう」
「いいんですか?行かなくて。授業とか、無いんですか?」
「あ〜、多分あるけど…何組だっけな次。忘れた」
「じゃあ起きなきゃ…」
「めんどくせ」
「ええっ。あの、怒られたりしないですか?」

グダグダとまるで慌てる素振りを見せない坂田先生に、オロオロするのは自分ばかり。何だか、理不尽。
どうしたらいいんだろうか、と掛ける言葉に困り出した時、ようやく坂田先生が目を開けて「どっこいせ」と立ち上がった。

「さて、と。めんどくせーけど行くとすっかね」

安堵する自分を尻目に、彼は咥えた煙草に火を付けながら呑気な口調でそう言う。先に立ってドアを開け校内に戻ると、彼も後から着いて来る。やっぱり煙草は消さないんだなぁ。誰からも何も言われないんだろうか。もしかして授業中も吸っているんだろうか。そんな事を取りとめも無く思いながら隣を歩いていると。

「つーかお前よォ」
「はい?」

煙をふうっと上に向けて吐き出し、坂田先生がこちらを見た。

「俺はともかく、お前が遅刻じゃね?」
「え?」

聞き返す間も無く。
2度目のチャイムが既に人気の無い廊下に鳴り響いた。

「ああっ!」

坂田先生を起こしているうちに、とっくに本鈴が鳴る時間になっていたのだ。
どうしよう。なんて言い訳しよう。ああ、そういえば小テスト。怒られるかな。先生に怒られるかな。
今すぐにでも走り出さなければならない事態とは裏腹に、巡る言い訳で重い頭と鈍る足。と、隣の坂田先生が小さく吹き出すのが聞こえた。

「すげー顔だなオイ。脳内カオスぶりダダ漏れてんぞオイ。俺放っといてとっとと行きゃ間に合ってたのにバカだね〜」
「…坂田先生は大丈夫ですか?他の先生に見つかったら怒られるんじゃ…」

ここまで来ても尚、慌てる気配を見せない彼が不思議でならない。生徒の遅刻以上に、教師の遅刻の方がバレた時には罪が重いのではないだろうか。大丈夫なのだろうか。
ふと黙った坂田先生を見上げてみると、彼は口元に小さく笑みを浮かべた。それは、いつもよりも少しだけ優しい表情に見えて。言葉がそれ以上続かなくなった。

「お前ガチでバカだろ」
「…ガチ」

あんまりな言い方だが、こうなると否定はできない。

「お前1年生?」
「…はい」
「ふーん」

あくまでマイペースな彼の空気に、自分の焦りまで吸い取られてしまったかのように。ジタバタする思いはいつの間にか静まっている。どこへ向かうのか同じ方向を歩き続ける坂田先生の隣、程なく到着した教室前。腕時計を見れば、5分遅刻。
なんの言い訳も無いのだし、とりあえず謝ろう。
言い訳はあっさり諦めて、手を掛けようとした教室の戸。けれど後ろから伸びてきた手が、自分よりも先にそれを勢いよく開く。

「すんませ〜ん。松尾芭蕉について熱く語ってたらこちらの1年生遅刻させちまいました〜」

左手で戸を開いた姿勢のまま背後に立つ坂田先生の声が、頭上からそう降ってきた。
ポカンとこちらを見るクラスメイトたち。同じくポカンとしてしまう私。

「つーことだから、服部ィ。あとよろしく」

そう言って坂田先生は私の背を軽く押す。行け、とばかりに。

「よろしくってお前…。人の授業に生徒遅れさすたァいい度胸なんじゃねーの?お前わざとだろ。俺への嫌がらせだろ、ソレ」

黒板前に立っていた服部先生が、手に持ったプリントの束を苛立たしげに丸めながら坂田先生に向き直る。どうやら、これからテスト用紙を配るところだったらしい。

「いやいや、松尾芭蕉は熱くなるだろ。『松島やああ松島や松島や』って松尾さん!っつーツッコミだけでも小一時間はいけるだろ。そんな信じる心も持てねー奴に少年たちのバイブル、ジャンプを読む資格はねーよ?つーことだからお前の机の今週号、アレ俺がもらっといてやっから。てめーは日本の歴史を読み耽ってろ。小野妹子は女じゃねーっつー事実を全力で受け止めろ」
「そんなもんとっくに受け止めてるわ!蘇我馬子も含めてダブルで乗り越えて来てるわ!つーかジャンプはてめーで買えや!」
「しょーがねーだろ。寝坊してコンビニ寄る時間無かったし。俺心が少年過ぎて、はやる気持ちを放課後まで抑えられねーし」

尚も怒鳴り返そうとする服部先生を遮るように坂田先生は片手を挙げると、「じゃ、ま、どーもお騒がせしました〜」と物凄くマイペースに締め括り、さっさと戸を閉めてしまった。
戸が閉まり切る直前、ほんの一瞬目と目が合って。
何か言いたかったけれど、何も言えなかった。

「あんな奴に捕まるなんざ災難だったな。あとで俺がガツンと言っといてやるから座れ」

服部先生は私の遅刻の原因は、坂田先生であると信じて疑っていない様子。
お陰で咎められるどころか逆に同情されながら、私は席に着いた。

坂田先生、1年生の授業なんて持っていないのに。
多分このために、1年生の教室まで一緒に来てくれたんだろうな。

ぼんやりと考えながら、窓際の席から空を見た。
さっき見た、青い空と山吹色の花と冷たいコンクリートと。そして漂うように揺れる白い髪と白衣の裾が。
目の前にちらついて、消えそうになかった。
そして思う。
また明日あの場所に行ったら、彼はあそこで昼寝をしているのだろうか。
それなら、お礼を言いに行ける。
昨日はありがとうございました、と、お礼を言って。そして。
また、あの階段に座って。ゆるゆると春風に乗って流れてくる煙草の香りを感じて。眠気を誘う空気に触れて。

一人ぼんやりと過ごすために開いていた非常階段のドアの理由が、変わり出している事に気付きながら。
けれどその訳を考えれば考えるほど、とりとめなく浮かぶ思いは着地点すら無く空回るだけ。
それでも、今ここにある、ふんわりと温かで、そっと差すように痛くて。まっすぐ伸びるように心地良く、それでいてもつれたように時折渦を巻く。この何かの正体を知る日がいつか来る事だけは漠然と確信しながら。
よく晴れた午後の時間は明日を待って淡々と過ぎていく。
途切れっぱなしの集中力に真っ白なまま佇むテスト用紙に困り果てながらも、淡々と。



これが始まりなのかなんて、わからない。
けれど何かが動き出したのは、きっとこの日。
「坂田先生」と、初めて名前を呼んだ、この日。















えーっと…唐突に「あの頃」編とか項目が一つ増えたりして、何を始めるのかと思われた皆様。
本当に申し訳ありません。
この「あの頃」は、私がただ単に通常3Zの過去話を気紛れに書きたくなった時のために作っただけのシロモノです。
それだけです。
どのくらい過去かと言うと、要するにいつもの2人が付き合い出す前の段階になります。
多分それを、時系列関係無くバラバラと書いていく感じになる予定(…とか言ってこの1話で終わったりして)。
これまでにも1周年の「あの時企画」とか、
クリスマス短編の「ミルクティー」とかでもちょろっと書いてはいたんですけどね。
なんかこう、過去の書きたいネタがまだポコポコと出るもんですから、
通常連載に組み込むのもなんか変だし、ちょっと分けてみよっかなぁ、という。
通常連載は通常連載で別に書きます。休止とかじゃないので、そちらもよろしくです。

また今後も、ものっそい不定期に思いつきで更新するかと思いますので、
もし良かったら見てやって下さいませー。