敗北宣言
国語科準備室の机に突っ伏して丸くなる白衣の背中を、陽に焼けたカーテン越しの茜が柔らかく染めている。 足音を立てないように、ゆっくりと近付いて。微かに上下する肩越しにその顔を覗き込んだ。 普段、めんどくせーやってらんねー、と煙草を咥える姿とは、なんだか違って見えるその横顔。 それは無防備な眠りのせいなのか。 外した眼鏡のせいなのか。 どっちなんだろう。 机の上に放り出されたまま西日を反射している眼鏡を拾い上げた。 目の前に掲げて、覗き込んでみる。扱いが乱暴なのか、フレームには微かな傷。だからいつもずり落ちてるんだなぁと納得してしまう、緩んだネジ。 傍らに立ち尽くしたまま眺めていると、突然、静かだった彼の肩がビクッと動いた。 つられて自分までビクッとなってしまう。 体はまだ突っ伏したまま。ゆっくりと銀色の頭を上げて、ぼんやりと寝ぼけた眼で正面を見据えて。そのまま数秒。 「…どうしたの?」 沈黙を破って尋ねてみると 「…なんか、落ちた。どっかから」 という答えがボソボソと返ってきた。 …うん、あるね。夢で落ちること。 そのまま大きく欠伸をしながら、手探りで眼鏡を掴もうとしている彼。 が、しかし。そこにあるはずが空振りした自分の手をじっと見て。そして横に立つ私を見上げた。正確には、私の手にある自分の眼鏡を。 「…」 「…」 しばし黙って私と自分の眼鏡を見比べた後。彼は、再び机の上に置かれたままの自分の腕に顔をうずめようとする。 「あれ?二度寝しちゃうの?」 つい声を上げると彼は伏せかけていた頭を重たげに持ち上げ私に向ける。いつもより一層死んだ目で。 「んだよ。眼鏡なんていーからもっと眠りなさい、っつーことじゃねぇのかよ。私の膝なり胸なり貸してあげるから眠りなさい、っつーことじゃねぇのかよ」 「…後半の眼鏡関係ないよ」 「バカヤロー。男ァみんな傷を負った戦士なんだよ。この街は戦場なんだよ。察しろ」 訳のわからない事を当然のように言いながらも、ようやく丸まっていた体を椅子に起こす。そして「ホラ、よこせ」と私に手を伸ばしてきたから、なんとなく眼鏡を後ろ手に隠した。 「先生、伊達眼鏡だって噂本当?」 「いや、それ今更聞くこと?いーから返しなさい」 「なんか、外すと違う人みたいだなぁって」 「バカ言うな。俺ァ、新八と違って眼鏡ごときにアイデンティティを持ってかれるほどキャラ薄かねーんだよ」 先生を困らせたいわけでも、からかいたいわけでもないけれど。 ただ、なんとなく。見ていたいような気がしてしまったから。いつもと同じなのに、いつもと少しだけ違う先生を。もう少しだけ。ほんの少しだけ。 でも、そんな理由は、理由にも言葉にもならなくて。手にした眼鏡を素直に返そうとした時。 呆れたように頭を掻いていた彼が、「あー、そーかそーか」と思いついたように声を上げた。 「だよね。ま、軽いのなら問題はねーけど、なんつーの?ガーッといきてェ気分の時は眼鏡ってアレだよね。邪魔になるよね」 急にそんな事を言い出し一人うんうんと納得している様子の先生が、私には理解不能。 彼は椅子から立ち上がると、掌に乗った眼鏡ではなく私の手首を取った。 普段レンズ越しに絡む視線は、今日は直接だから。なんだか、直視できない。 「はい眼鏡」と差し出してみると、彼は空いた左手でそれを取り、自分の顔ではなく机の上に乗せた。 「眼鏡しないの?先生」 「あー?だってアレだろ?ちゃん、これがご希望なわけだろ?これで何も遮るモンはありませんけどォ?いくらでもガーッといけますけどォ?」 先生の左手が私の顔の横、準備室のくすんだ壁についた。距離が近付く。それでやっと、意味を飲み込む。 「ええっ。そういうんじゃないよ?そういうんじゃないよ?」 「何で2回言うんだよ」 「…大事なことだから?」 「そーいうんじゃない、っつーこたァねェだろ。たしかにねー。眼鏡当たるよねー顔に。ごめんね、先生気遣い無くて」 その楽しげな顔はなんていうか…「しめしめ」の顔だ。 別にそういう…なんていうか誘うような狙いで眼鏡を返さなかったわけじゃない。断じて違う。 ていうか、今まで眼鏡気にしたことなんか無かったのに。何を急に。 頭の中ではすごく先生に話しかけているんだけれど、不思議。 先生とのこの距離は、いつも私を黙らせる。 その時。 コツコツと木の戸を叩く乾いた音が響いた。 誰かが、準備室の戸をノックしている。 さすがに動きの止まった銀八先生は音の方向を振り返り、ものすごく不機嫌そうな声で「ああ?」と返事した。 私は私で、怪しまれないように、何事も無かったように、と何だか妙に落ち着かない気分。事実何も無いんだけれど。 慌てながらも「がっかり」と言っている私の脳は、ひどく正直だと実感する。 「先生コレ、集めろって言われてたプリント。やっと全員分揃ったんで持って来ました」 提出物の束を片手に、準備室に入ってきたのは新八君だった。 私を見ても、特に無反応。もう、ここに私がいることは当たり前だと認識されているらしい。 「プリントだァ?何んなもんクソマジメに集めちゃってんだバカヤロー。先生が集めろって言ったから集めました〜って、それでいいのか?おめーの人生それでいいのか?あんコラ」 「何!?その、かつてない理不尽な説教!?」 堂々と生徒に絡み出す教師の言葉に、新八君の声も大きくなる。 「放課後っつーのはなァ、もっとめくるめく時間を過ごためにあんだよ。ソレをちまちまプリント運びなんかしやがってよォ。そんなんだからおめーはいつまでたっても新八なんだよ。眼鏡外したらドコいにいんのかわかんなくなんだよ。ちったァ空気読みやがれ」 「いや、どんだけ僕自身の存在感ねーんだよ!つーかアンタも眼鏡でしょ…って…ちょ、なんで眼鏡外してんですか。国語科準備室で何、不純異性交遊を図ってるんですか」 そういえば、先生の眼鏡は未だ机の上のまま。不審げな新八君の目が、こちらには向けられていないとは言え…痛い。 「バカヤロー、不純じゃねェ。先生はむしろ欲望に純粋だ」 「より悪いわ!」 「新八ィ、おめーも眼鏡なら一度や二度はぶつかる壁だろーが。いかに自然に、やましい事を考えていると悟られることなく眼鏡を外して流れを作るかっつーのが眼鏡男子の恋愛第一関門だろーが」 「知らねーよ!つーかアンタのやましさ悟られまくってるからね!?みんなご存知だからね!?」 一通りのツッコミの後、新八君はいつものように諦めを含んだ溜息をつく。そして、私を見た。 「ちゃん…愛想尽きることないの?」 「…ええと」 聞かれて一瞬考える。 愛想が尽きること? 驚くことも、慌てることも、寂しくなることも、色々あるけれど。 愛想が尽きたことは、無い。愛想の尽かし方が、わからない。 新八君は、はーっともう一つ溜息をついて。まだ何も答えていないというのに、「ああ…そう。無いんだね」と悟ったように言った。 どうしてわかっちゃうんだろう。 「も、いいや。帰ります…。お邪魔しました」 新八君ははそう言って脱力したようにノロノロと歩き出す。 戸に手をかけ、開ける直前。振り返らずに背中のまま、 「こんなトコでイチャついてたら、いつか誰かに見られても知りませんからね」と一言。 そして準備室を出て行った。 結局、なんだかんだ言っても。 心配してくれてるんだ、新八君は。いつだって。 彼だけじゃない。 Z組のみんなも。 新八君の背中を見送った後。 先生は椅子に座り直し、机の上の眼鏡をようやくかけた。 そこにいるのは、いつもの先生。 じっと見つめていると、先生が「何?眼鏡ねェ方が好みだった?」と茶化すように言った。 例えば眼鏡が似合う人ってかっこいいとか。 煙草を吸う姿が大人っぽいとか。 好きになったばかりの頃は、そんな幾つもの先生の欠片を、好きな理由だと思っていた。 そんなたくさんの欠片を全部繋げたものが、銀八先生なんだと思っていた。 でも、今は。 彼のどこが好きかと問われても、スラスラと箇条書きに答えが出てくる気はしない。きっと、言葉になんてならない。 眼鏡でもコンタクトでも。 ヘビースモーカーでも禁煙始めても。 銀八先生は銀八先生で。 好きなものは好きなんだって。 そうとしか答えようがないから。 「眼鏡とかじゃなくて、銀八先生が好みなんだもん」 思ったことがそのまま、口をついて出た。 今、結構恥ずかしいこと言ったかも。そう気付いたのは数秒後。 どうしていつもこうなのか。でも、言ってしまったものは仕方ない。 箱から煙草を1本取り出しかけた状態のまま、動きを止める先生。 「…お前よォ。俺がせっかく新八の忠告をありがたく受け取って続きをぐっと堪えたのによォ。なーんで更に誘ってくるかなァ、オイ」 「誘ってないけど…ほんとのことだから、つい」 先生の手が煙草の箱を放り投げる。 代わりに私の腕を掴んで。 再び立ち上がった先生の口が耳元で「だーから、ソレが誘ってるっつーの」と低くつぶやいて。 そのまま私の唇に移動する。 それは、触れるだけの軽いキス。 あれ?と思ってしまった私を覗き込んで、先生はニヤリと笑った。 「物足りねぇツラしてやんの」 どうして、この人は。 人の図星をついて楽しむのが好きなんだろう。 性格悪い。 「さ〜、そのツラ見れただけで満足だしィ?とっとと帰って寝直すかね〜」 そう言って帰り支度を始めようと背中を向けた先生の白衣を掴んだ。 そしてそのまま、広い背中に額を預ける。 「…どした」 首だけ振り返った先生の声に、少しだけ驚きの色。 「…誘ってみた」 答えると少しの沈黙の後、先生が小さく笑う気配がした。 「負けたわ、お前には」 そう言って外した眼鏡を白衣のポケットに滑らせた先生が、こちらに向き直った。 そしてもう一度、キスをする。 さっきよりもゆっくり、ゆっくり。それは、ここが学校で自分が生徒で彼が先生で新八君には忠告されたばかりで。そんな全てを忘れてしまうような、時間。 『負けたわ』なんて、嘘ばかり。 だって仕返しのつもりが、やっぱり仕返しになんてなれていない。近付けば近付くほど、離れた時を寂しく思ってしまうのは結局自分。 きっと、ずっと、彼に勝てる日なんて来ない。 でも。それで、いいか。 先生になら、勝てなくたって構わない。 先生だから、構わない。 いつだって。 私の負けです、銀八先生。 |