月曜日






淡い雲が幾筋か漂うだけの、青い青い空。
金曜日の大雨が、まるで嘘のような月曜日の朝の空。

ずぶ濡れの制服の重みも、耳の奥まで響いた雷の音も。
今はもう、体には残らない。ぼんやりとした記憶だけ。

あの時、信じられない事を私に告げたはずの声も。
唇に触れたぬくもりも。
すべてが、ただぼんやりと漂う雲のように遠い出来事で。

いつも通りの騒がしい教室に、いつも通りのチャイムが響く。

あれはもしかして、全部、夢?
きっとそうだ。
だって、その方が、信じられる。
納得がいくもの。







教室の戸が、ガタガタと古い音をたてて開いた。

「今日も今日とてうるせーんだよ、てめーら。枕投げ開始1分前の修学旅行の大部屋ですか?コノヤロー」

そういう自分も、今日も今日とてずり落ちメガネにくわえタバコのユルい格好。
我らが担任、銀八先生は、朝っぱらからダルさ全開。
本日1時間目は銀八先生の国語の授業。
開く素振りすら見せない出席簿をやる気無く教卓に放り、銀八先生は大きく一つアクビをする。

「あーあ。タリーな、オイ。とりあえずしゃーねェからホームルームもしくは1時間目、始めたくねェけど始めっぞー」

始めたくねぇけど、は心の中で言って下さいよ。
一番前の席では、いつも通り新八君がツッコんでいる。

そんな様子を、私はまるで教室の外からでも眺めるような気分で見つめていた。
先生、相変わらず。
金曜日、私、本当に先生の家で雨やどりしたんだろうか。
ううん。していないんだよ、きっと。
私の夢なんだよ。
だってほら。今だって目すら合わない。
いつもと何も変わりないもの。


「先週やったテスト返すぞー」

そう言うやいなや先生は、神楽ー、新八ー、サドー、ゴリーと一人ひとりを呼びながら教卓から答案をバンバン投げ散らす。
結局は空を舞う答案を誰のモノかもわからないままに追う生徒たちからしてみれば、正直、呼ばれる意味はあまり無いわけで。
教室は一気に大荒れ。

うわー見んじゃねー!
それ私のォォ!
ホアタアァァァ!
土方死ねやァ!
お前こそ死ねやァァ!

様々な声が頭上を飛び交う。

私の答案は92点。
過去最高得点に、ぼんやり気味だった頭も少し驚きでハッキリする。
たしかに、国語だけは真面目に勉強しているけれど。
いつの間にかこんな点数が取れてしまうほどに、熱心に取り組んでいたとは自分でも気が付かなかった。
…動機は、もちろん飽きれるほどに不純なのだけれど。

、お前すごくね?92?」
隣の席の土方君が、私の答案をのぞき込む。
「すごいよね?自分でもびっくり」
「なんでだよ?秘訣教えろよ」
顔を寄せてきた土方君のこめかみに、何か白いものが直撃したのは次の瞬間。
正面から飛んで来たそれは、白い…チョーク?

「土方ァ。授業中に私語は慎むよーに。つーか、それ、俺んだからあんま近寄んないよーに」

声の主は、いつもと何ら変わらぬ気だるい表情で白髪頭を掻きながら、こちらをまっすぐに見ていた。
霞んでいた金曜日の音が、空気が、匂いが、感触が。
一気に頭の中を駆け巡って、その姿を見たまま動けなくなった。
夢じゃ、なかった?

「つーか先生!全員私語しまくってんスけど!なんで俺だけチョークなんスか?!」
憮然とした表情で抗議する土方君に、
「いや、それ以前に『それ、俺の』って何?!」
叫んだのは新八君だった。
うん、そうだよね、ツッコミどころはそっちだよね。
固まりながらも、脳内の私は意外と冷静にそんな事を言っていて。
まだ何一つ実感し切れていない事を告げている。

「あん?新八ィ。ニブイぞ、おめーは。んなこったからモテねーんだよ。言ったとおりだろーが。察しろ、コノヤロー」

平然と述べた先生に一瞬静まり返った教室が、少しづつざわめき出した。

「…何?お前、あいつと付き合ってんのかよ?」

驚きを隠さない様子でこちらを見る土方君に、口ごもってしまう私。
答えるべき答えも。答えて良いという確信も。正直私には見つけられなくて。

「あんなダメ教師と付き合うくれェならまだ俺の方が」
何やら言いかけた土方君を遮るかのように、またチョークが。今度は、後頭部に。

「よーし、今日の授業は予定を変更して席替えだ。日直、クジ作れ、クジ〜」
「先生、席替えは国語と何のつながりもありません」
めげずにツッコむ新八君。
「じゃ、『雨ニモ負ケズ』を朗読しながら席替えだ」
「いえ、意味がわかりません」
「沁みるだろ、なんか」
「いや、だから、席替えで沁みる必要性がわかりません」

「先生!僕、チョコレートパフェおごるんで、お妙さんの隣にしてください!」
勢いよく挙手した近藤君が、あっさり買収計画に乗り出した。

「先生、私、特製卵焼き作るんで、このゴリ退学にしてくださいな」
近藤君にコンパスを投げ付けながら微笑むのはもちろん妙ちゃん。
「卵焼きはいらねーから、退学は実力行使でがんばれ。妙、お前ならできる。自分を信じろ」

「先生ー。じゃあ俺ァ今週のジャンプ買ってきやすんで、土方コノヤローを地獄送りにしてくだせィ」と沖田君。
「その前にてめーを地獄送りにしてやらァァァ!」
銀八先生が答える間を待たずに、土方君がその後ろをものすごい形相で追いかけ出す。

「先生!私はタコ様ウインナーに囲まれた席が夢ネ!」
力強く手を挙げた神楽ちゃんに、
「そうか。お前は帰ってもう一回夢見て来い。つーか、そのまま目覚めるな」
銀八先生が淡々と切り返す。

もう、はじまりが何の話だったんだか。さっぱり。
やっぱり相変わらずだ、3年Z組は。
そして、銀八先生も。

「っとにおめーらは、毎度毎度授業になんねーんだよ、コラ。しょーがねーから、おめーらの頭が冷えるまで俺ァジャンプでも読んでるわ。あくまでおめーらの頭を冷やすために」
「先生がただジャンプ読みたいだけじゃないですか。ていうか、いつも授業中普通に読んでるじゃないですか」
「るせーな。じゃあ、おめーらの頭が冷えるまでと別室で特別授業してくるわ」
「ええっ、特別授業って?」

ダラダラと私の机の前まで歩いてきた先生に腕を掴まれた。
その体温に、金曜日の先生の体温が重なって。もう、頭も心臓もグチャグチャで。

「いやいや、教師が率先して授業抜け出すってどーゆーこと!?」
特別授業は、私が立ち上がりもしないうちにもちろん新八君に止められた。

「んだよ。邪魔してくれてんじゃねーよ。モテない君。じゃあ、。アレな。メガネうるせーから、放課後補習にしとくか」
「…私、92点なのに?」
「バカヤロー。生徒の良い芽をどんどん伸ばしてやるのが、教師の務めってモンだろーがよ」
「27点の俺には補習してくれないんすか。先生」
手を挙げる土方君に、銀八先生は非情にも。
「うん、土方。お前はやればできる子だ。先生陰ながら応援してるぞ」
「先生!ありがとう、俺やってみる!・・・って、あんたそれ、と2人になりてーだけだろうが!」
「当たり前だ。人の恋路を邪魔する奴ぁ、普段営業スマイルな奈良の鹿にしばき回されて死ぬんだよ、コラ」
「先生、『馬に蹴られて』です。わかりにくいです。遠過ぎます、そのボケ」
新八君のツッコミも、さすがに冷ややかになっている。

「て、いうか。あんたら、本当に付き合ってるんですかィ?」
沖田君の唐突な核心を突く質問に、教室が、静まった。

先生は、確かにあの時、私の事を「俺の」って言ってくれたけれど。
だからって、「はい、付き合ってます」なんて答えられるほど、私自身に実感が無いのも確かで。
というより、自信なんかこれっぽっちもなくて。
やっぱり今のこの状況すら夢なんじゃないかと自分を疑ってしまうほどに。
私はずっと、目の前にいる白衣の教師をただただ勝手に、好きで。
勝手に好きでいる事しかできないと、思い込んでいた時間の方が、ずっとずっと長過ぎて。
返事をできないまま、きっと戸惑いや焦りや迷いが顔に出ているのだろう私を尻目に、銀八先生は、表情一つ変えずにあっさりと答えた。

「おー、付き合ってんぞ。てめーら、手ェ出すなよ」

息が、止まるかと思った。

「な?」と私を見て軽く同意を促してくる銀八先生を、見つめたまま、声が出ない。目も反らせない。

「…オイ。口開いてんぞ、お前」

銀八先生が、眉間にシワを寄せているのに気付いて、あわてて口を閉じた。
そんな私を黙って見つめた後、彼はもう一度「返事は?」と促す。
みんなが私の方を見ているのがわかる。
けれど、私は、先生しか見れないまま。
思い切り、うなずいた。

銀八先生は、それに応えるように口元に微かに笑みを浮かべて。そして、
「ま、つーことだから。よろしく」
と、何がよろしくなのか、Z組の面々を見渡してそう言った。


コソコソしないって言ってたけど。
コソコソしなさ過ぎだよね?コレ

と、私が気付いて一人慌てることになるのは、すっかり呆けてしまったこの頭が、若干落ち着き出す放課後になってから。







放課後。
朝の銀八先生の「放課後補習」が、どこまで本気かはわからないけれど。
少しだけ期待して、みんなとは帰らずに学校に残った。
そうっと教室の戸を薄く開いてみると。
窓際の机に腰掛けてぼんやり空を見ながら、タバコの煙を吹き上げる見慣れた姿。

「ほんとに、いた」
つい声に出してしまうと、銀八先生がこちらを見た。

「ほんとに、って何よ。ほんとにって」
「だって。もしかして、冗談だったのかなぁ、って」
「んな事言って、いなかったらガッカリすんだろ」
ニヤリと笑う銀八先生の言葉は、正直とっても図星。

ま、座れや。携帯灰皿に短くなったタバコを押し付ける先生の言葉に従って、私は席の一つに腰掛けた。
先生は、その前の席に後ろ向きに腰掛け、背もたれに肘を付いて私を覗き込む。
しばしの沈黙。
どうしてかな。
こうして先生に見つめられると、何も話せなくなってしまう。

「…つーかよォ。どうよ?」
「え?」
唐突な先生の問い掛けに、私は聞き返すことしかできなかった。
どう、って。何が?
「とりあえず〜、うちのクラスにゃバラしちまったし。つーかコソコソして無駄に他のヤローに手ェ出す隙与えとくのも腹立つし。こんな風にしか俺ァ出来そうにねーんだけど、ソコんとこどうよ?それでもアリ?」
「…」

多分、また口が開いている。私。
先生の口から聞く言葉は、どれもこれも、今の私にとって驚きでしかない。
だって、要するに彼は、それでもいいかと聞いているのだ。
それでも付き合う気はあるのか、と。

「アリ」
答えは即出た。たった一言。けれど、はっきりと。
だって、こんなに先生の一言一言が嬉しいのに、ナシなわけがないのだ。
絶対に、そんなわけがない。
先生は、私の答えに少しだけ驚いたように一瞬口をつぐんだが、すぐに小さく笑った。
考えろや、少しは。
呆れたように、そう言いながら。
そして、私の右頬を軽くつねる。

「もし、この事でお前が嫌な思いするような事があったらよ。とりあえず、すぐ俺に言え。んなモン、俺が潰してやっからよ」

思いもよらない言葉に、急に涙が出そうになった。
こぼれる寸前でこらえて、笑う。
このうれしさが、ちゃんと優しい銀八先生に伝わるように。

「うん」

答える私の残った左頬もつねると、先生は、
「ハイ、補習終了〜」
と、いつもと同じ間延びした声で私に告げた。





やっと、信じられる。
金曜日のあの雨も、あの部屋も、あの言葉も。
すべて本物だったと信じられる。

けれど明日の朝にはきっと、あの月曜日は夢だったんじゃないかと心配になるだろう自分も容易に想像がつくから。
だからちゃんと実感できるように、今のうちから予約しておこう。
明日の朝、学校着いたら国語科準備室に行ってもいい?って。