学校祭「後夜祭」
窓越しの空からは、わずかな夕暮れの残り火も消えて。 いつもなら校舎が静まり返る時間の色。 けれど今日は、教室に、廊下に、まだ残る人の気配と微かな熱気。 そしてそれは、ざわめきと共に校舎からグラウンドへと流れていく。 これから後夜祭が始まる。 一般のお客さんたちはもうすっかり引き上げて。 グラウンドに大集合して、学校だけのお祭り騒ぎ。 後夜祭に向かう生徒たちに逆らいながら、私は廊下を急いだ。 もうすぐ空っぽになるだろう校舎の奥へ。 剥がれて床に落ちたどこかのクラスのポスターを飛び越えて、もっと上へ。 だって、あの人は、自主的にグラウンドになんて行くはずがない。 誘われても「めんどくせ」と言うに違いない。 けれどそのくせ意外と律儀に、どこかで様子を見てくれている、はず。 だとしたら、今いる場所は一つ。 一般のお客さんが勝手に入れないようにと、今日だけバリケード代わりに置かれた平均台を乗り越えて、屋上へ続く階段を上る。 私の身長には長い白衣が足元にからまるけれど、負けるもんかと裾を握って。 外した伊達メガネが、ポケットの中でカシャカシャと揺れている。 そうっと重いドアを押し開けると、隙間から外の空気が頬をかすめた。 夜の中にも隠れない銀色の髪と、白衣の背中が見える。 私は黙ったまま、手すりにもたれる銀八先生の横に並んだ。 屋上のこちら側からはグラウンドは見えない。 見えるのは人気の無い校門だけ。 けれど賑やかにはしゃぐ生徒たちの声は、はっきりと背中に届く。 先生は、ここでちゃんと、それを聞いている。 「行かねーの?後夜祭」 銀八先生が横顔のままそう言った。 「先生こそ」 その目を見ながら言い返してみる。 「めんどくせ」 あまりにも予想通りの答え。 おかしくてつい吹き出したら、「何笑ってんだ、コラ」と頭を掴んで揺すられた。 グラウンドからは後夜祭開始を告げるアナウンス。 「ご苦労なこったなァ。こんな時間まで」 やる気の無い顔で先生は手すりに背を向け肘をかけ直す。 「先生、今年の学校祭も楽しくなかった?」 同じように手すりに背をもたれて煙を吹き上げる横顔を覗くと、 「たりめーだろーが。うちの奴らは準備おっせーしよォ。ヨソのバカどもの相手までしなきゃなんねーしよォ」 先生は面倒くさそうに顔をしかめて頭を掻いた。 そうだよね。 結局本当に起きてしまった面倒事を処理してくれたのは先生だもんね。 少しでも楽しんでほしかったのに、な。 「ま、『カフェ・ド・糖分』のパフェは旨かったから、マイナス面はアレでチャラにしとくか」 ポケットから出した携帯灰皿にタバコを放りながら先生が言った。 「本当?」 「おー。さすが彼女さん。俺の好みわかってんじゃん?て感じ?」 先生の口から「彼女さん」とか。 そんな簡単な一言が、耳に残って。 グラウンドのざわめきが、遠くなる。 「それでようやく、俺の『学祭良かったなメーター』ゼロだから、プラスにすんのはこれから次第じゃね?」 余裕げに笑う口で、そんなことを言う。 意味ありげな目で、私を見下ろす。 「…まだプラスにできるかな」 「お。やる気十分?」 「だって、先生の学校祭も楽しくしたい」 私の言葉に、先生が黙った。 なんか、変なこと言ったのかな、私。 もう一度口を開こうとしたのを遮るように、先生の手が私の背中に回って、向かい合う位置へと引き寄せられた。 「バカですかー、お前は」 「…バカかな」 「でもアレだな。今のでメーター、プラス1になったな」 「ほんと?」 でもまだなんにもしてないんだけど。 何きっかけでプラスになったのかと思い巡らせていると。 おでこに、柔らかくて温かい感触。 先生の唇の感触。 「ハイ、これでプラス2〜」 そこで既にいっぱいいっぱいな私を他所に。楽しそうな先生の声。 「あと、カウントしといて」 そう付け加えた先生の唇が、頬に、瞼に、髪に落ちる。 優しく、優しく。 時折、長い指で私の髪を梳きながら。 プラス3、プラス4、プラス…ああ、もうダメ。わかんない。 無理。カウントなんて、無理。 先生をプラスにするより先に、私の『学祭良かったメーター』が振り切れちゃう。 「どうよ。プラス10くらいまでいったんじゃね?」 唇を寄せたまま、私のこめかみで先生が言う。 「…カウントわかんなくなっちゃった」 「あー。それどころじゃなかった?」 ちゃんドッキドキ〜、なら仕方ねぇよなァ? わざと耳元で、憎らしいほど楽しげに。 先生の手が私の頬を挟んで、自分の方を向かせる。 これでもう、目もそらせない。 見つめた先生の顔が、ふと、真顔になった。 そのまま私の両頬を、軽くつねる。 「一つお説教すんの忘れてたわ」 「お説教?」 「お前、あんま危なっかしーことに首突っ込んでんじゃねーぞ」 何を言われているかはすぐにわかった。 昼間の、あの騒ぎ。 私が自分から割って入っていったことを言っているのだろう。 「新八は男なんだからよォ、まかしときゃいーの。バカみてぇに真っ向勝負しやがって。なんかあったらどーする気よ」 「…ごめんなさい」 そうなんだ。本当にそう。 新八君は、結構頼りになるし。いざとなったらキメてくれる人なのわかってるし。 私が出て行ったってどうにもならないのわかっていたのに。 なんていうか、つい。 考えるよりも先に。つい。 「ま、でも、アレだわな。お前がそーゆーバカな奴だから、今こーなってんだけどな」 「え?」 先生の言葉の意味がわからなくて、聞き返す。 「くだらねー噂なんか放っときゃいいのによォ。『銀八先生はウラで手を回したりする人じゃない』とか、わざわざ真っ向勝負しやがるバカな奴だからよォ」 それについては、なんのことを言っているのか飲み込むまでに数秒かかった。 噂? それって、もしかして。 何カ月か前の。 先生のおかしな噂の、あの時の。 「…なんで知ってるの?先生」 「さ〜。なんでですかねェ。先生なんでもお見通しだからねェ」 適当な口調でかわされたけれど。 でも、よく考えてみたら。 あの時は周りなんて見えていなかったから。 どこかで先生に聞かれていてもおかしくはない。 Z組の生徒も何人か聞いていたみたいだし。 後から誰かが、先生に話していても不思議じゃないんだ。 今更だけれど、恥ずかしい。 あの時も『つい』。考えるより先に、つい、言葉が出ていた。 「そんなこんななバカっぷりに俺がヤラれちまったのは事実だけどよォ。だからって、程々にしとけ」 「…ハイ。気を付けます」 静かな先生の声に、素直に頷いた。 「でも、先生いてくれて良かった」 「もうちょい様子見といて、漢字ドリル200ページもアリだったかもしれねーけどな」 嘘ばっかり。 自分のクラスで、自分の生徒たちに、あんな風に好き放題されるなんて。 先生は許せないクセに。 ていうか、さりげなくペナルティ100ページ増えてるし。 あれ? ていうか。 『そんなこんななバカっぷりにヤラれた』? 先生がどうして私を選んでくれたのか、いつも不思議だった。 特に目立ちもしないはずの私を。 その答えを、今何気に口にしてくれてた? でも、バカなとこって。 ますますわかんなくなっちゃったけれど。 その時背後で、大きな破裂音が響いた。 振り返ると、グラウンドから、後夜祭の花火が上がり始めていた。 そういえば、先生とここで花火を見るのは2度目。 あの時のように大きくて鮮やかな花火ではないけれど。 小さな小さな打ち上げ花火の光は、少しだけ切なくて。けれど暖かくて。 秋風の夜空に、よく映えた。 「」 呼びかけに、花火に奪われていた視線を戻すと。 先生の唇が私の唇に触れた。 花火の音と重なるように、自分の心臓の音が耳に響く。 離れた顔を見つめると、 「このままプラス100くらいまでいっとく?」 なんて、先生が笑った。 結局、『学祭良かったなメーター』は、私の方がダントツでプラスポイント高いと思うんだけど。 それでも、朝の決意表明は達成できたと思ってもいい? 間近で見る先生の目が、「悪くねぇな」って言ってるように見えるから。 だから。 このまま後夜祭が終わるまで。 もう少しだけ、幸せな学校祭を。 |