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銀八先生の教育実習も、残すところあと2日。

「で〜、メロスは走ってたわけなんだけど、なんか途中で、眠ぃーし、ダリーし、メンドくせーみたいな気分になっちまったわけでェ」

まだ、メロスである。
いつまで走らせるつもりだよ、メロスを。
早く授業進めてやろうよ。

「…つーか、なんでコイツ走ってんだっけ?」
「いや、僕らに聞かないで下さいよ」

真顔で尋ねてくる銀八先生に、教卓前の生徒が呆れたように答える。
教室の一番後ろで腕組みする小笠原先生は、もうすっかり諦めた様子で、黙って授業を眺めているだけ。

銀八先生は相変わらず。
グダグダな授業。グダグダなホームルーム。
廊下では、ネクタイをきちんとしろ!と小笠原先生に怒鳴られ、教室では、実習日誌書き直し!とやっぱり怒鳴られて。
あの日見た銀八先生は、夢か幻だったのかと自分の目と耳と記憶を疑いたくなるほどのダメっぷりなんだけれど。
現実だった証拠。
それは、A組生徒全員が、どんなにグダグダでも銀八先生の話をちゃんと聞いていること。
笑って、呆れて、時にはツッコんでいること。



けれど僕的には一つだけ納得のいかないことがある。
ソレは。

「銀八先生ー。コレ新製品のお菓子。食べる?」
「せんせーの頭って天パ?」
「ねーねー。先生ってドコ住んでんの?」

…コレだ。

なんでだ。
なんでこの人、女子にチヤホヤされ出してんの?!
…まぁ、チヤホヤと言ってもごく一部に、ではあるんだけれど。
それでも彼の周りは、昼休みの度、数人の女子が集まるようになっていた。
先生は相変わらず窓際のパイプ椅子に腰掛け僕の机を我が物のように使用するため、結果、僕も一緒になって女子の輪に囲まれることとなる。
でも、なんかものすごく不本意っていうか。
お呼びじゃないのに輪の中にいるこの感じが、逆に切ないっていうか。

「先生、彼女いるんでしょー?」
「るせーな。だから募集中だって言ってんじゃねーか。いたら、もうちょい余裕かましてるはずだから」
「なんでいないの?合コンとかしないの?」
「合コンね〜。先月やったんだけどよォ、なんつーか俺を唸らせるだけのハイクオリティな女がいなかったっつーか」
「えー。相手にされなかったんでしょ」
「バカおめー、俺モッテモテよ?俺が空気読まなきゃ女の子総お持ち帰りよ?他のヤローの出る幕ねぇよ?」

そんな会話が飛び交う中を、腰を低くしてすり抜ける。
ようやく輪の中から脱出すると、他の男子達が僕を手招きしていた。

「ようやく抜けてきたか」
「うん…ていうか、なんか納得いかないの俺だけ?」
「いや、お前だけじゃねぇよ、宇都。俺も納得いかねー」
「アイツら教育実習生≠チていう肩書きに騙されてんだって、絶対。そーじゃなきゃありえねー。この事態」

互いの言葉にうなずき合うA組男子一同。
なんだか今、かつてなく気持ちが一つなんじゃない?
団結してるんじゃない?僕ら。






放課後。
図書室で少しだけ勉強をして、人気の無い廊下に差し込む夕焼けの中を歩く。
この風景も、すっかり最近のお馴染み。
柔らかに薄紅と藍色が混ざり合い出した空が、今日は格別に綺麗だ。

ハラ減ったな。メシ何かな。あ、夜勉強する時になんか食うモンもほしい。
そんな食の方面に特化したことをとりとめもなく考えながら。
コンビニ寄って帰ろ、と思ったところで足が止まった。
カバンを探る。ポケットを探る。
あ。財布教室に忘れてきた。
踵を返すと、滑りの悪いくすんだ廊下に、キュッとシューズのゴムが擦れる音が響いた。



A組の教室は、ほんの10cm程度戸が薄く開いていた。
特に疑問にも思わずそこに手をかけようとした時。
静かな廊下に微かに漏れる中からの声が、それを止めた。

「いや…なんつーの?アレだ。気持ちはうれしーんだけどよ。いや、マジで」

銀八先生?
まだ教室にいたのか。

「…だって先生、募集中って言ってたから。私、応募したいな、って」

その後にすぐ続いたのは、女生徒らしき声。
そのやり取りの雰囲気に、僕の手は止まったままになってしまった。
空気を読んだ僕の脳が、今教室に入るべきではないと告げる。
だからって立ち聞きもすべきではない、とも脳は告げてくるんだけれど。
つい、足も止まる。

「や、たしかに言ったけどね。だからってよォ。もーおめーらから見たら俺なんてオッサンみてーなもんだろ。やめとけって」
「…」

いつも通りの呑気で軽い口調でそう言う銀八先生に、対する声が沈黙する。
うちのクラスの女子かな。
最近やたら囲まれてるとは思っていたけど、まさか告られるまでとは…。このダル教生が。
世の中って、無常。

「私じゃダメ、ってことだよね?」
静かな、確認。
「あ〜…。え〜と、ホラ、なんだ。ダメって、ダメとかじゃなくて、ホラ」

歯切れ悪く言い淀んでいた銀八先生だったが、一旦言葉を切り、少しの沈黙の後、
「ワリーな」
と、一言返事した。

直後、パタパタと足音が戸に向かって駆けて来た。
あ、ヤバイ。
慌てるものの、隠れるところなど無く。
なんのカモフラージュ道具も持っていないのに、忍者のようにペタリと壁に張り付くという情け無いテンパりぶり。
それでも戸を開けて出て行った女生徒は、下を向いたまま僕がいた側とは逆方向へ廊下を走って行ったため、どうやら気付かなかったようだ。
ああ、良かった。


ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。

「な〜にしてんだァ?オイ」
背後から降ってきた声に肩がビクリと上がった。
「銀八先生…」
教室の戸から顔だけ出してこちらを見る銀八先生と目が合った。

「お、随分後ろめたいことでもありそうな反応すんじゃねーの?」
「いえ、僕はあの、今来たトコで、あの」

そこまで言って、自分の言い訳が非常に苦しい事を自覚し、僕は諦めた。

「す、すいません…。聞いちゃいました」

うつむいた僕に、銀八先生は小さく笑った。
ま、そりゃ聞いちゃうわな〜とか茶化すように言いながら。
先生はそれ以上何を言うでもなく、白髪頭を掻きながら教室に戻っていく。
僕もその後を追って教室に入った。
財布を取りにきたこと、忘れかけていたよ。

「忘れもん?」
自分の机の中を探る僕に、窓際の席の一つに腰掛けた銀八先生が声をかけてきた。
「はい、コレを」
奥の方から引っ張り出した財布を見せると銀八先生は、
「おめー財布忘れるなんて、よっぽど坊っちゃんか金入ってねーかどっちかだぞ」
と呆れたように言った。
先生は手元のノートに目線を戻してページをめくる。
よく小笠原先生から「書き直し!」と突き返されてる実習日誌。
ここで書いていたのか。
先生がクルクルと手元で回すシャープペンシルの微かな音が、静かな教室に響いた。

「…あのコ、うちのクラスでも結構モテるコなんですよ?」

僕が突然ふった話題に、先生は「ああ?」と顔を上げた。

「もったいないなーとか思わなかったんですか?」

第三者が立ち入るべきでない突っ込んだ質問かもしれないけれど。
つい聞いてしまったのは、さっき教室を出て行った彼女の泣きそうな顔がチラついたのと、普段の銀八先生の軽いノリからは意外に思える返事だったことへの興味だった。

「もったいないってお前…。別に俺そこまでがっついちゃいねーんだけど」
ペンを回したまま銀八先生が答える。

「それにホラ、なんかアイツら勘違いしてんだって。なんか『教生ってカッコイ〜、大人〜』みたいに見えるお年頃なんだって」
「まぁ…そうだと思いますけど」
「いや、そこはアレじゃね?否定するとこじゃね?銀八先生自身の罪な魅力のせいですよ、とかって」
「僕あんまりお世辞うまくないんで」
「そんなこっちゃ世の中上手く渡っていけねーぞ、宇都っち」

銀八先生の盛大な溜息は無視。
この人にお世辞を言ったところで、世の中上手く渡っていけるとは到底思えない。
ていうかこの人自身が、そういう生き方しているよーには見えないんだけど。

「なんか、先生なら手ェ出しちゃうかと思ったんですけど」
つい思ったままを口にすると、
「え?俺ってそんなイメージ?つーか3週間だけとは言え先生よ?んな軽率なことするわけねーだろーが」
と、若干不本意そうに顔をしかめる。

…先生とは思えない数々の行動は短期間で随分見てきたけれどね。

「でも先生、本当に先生になったら自分の生徒に手出しそうですよね」
「バカ、おめー。俺ァまだ先生になるとは決めてねーけどよ。なったとしたって生徒になんて手ェ出さねーよ。メンドくせェ」
「メンドくさい?」
「だってアレだろ?そういうのはやっぱ禁断のナントカで、バレたら大変なんだろ?減給なったりクビんなったり夜汽車で逃避行しなきゃならなかったり」
「…そりゃそうでしょうね」
「んな危ねー橋わざわざ渡るわけねーだろーが。別に俺女子高生に執着ねーしよー」

銀八先生は、本当に面倒臭そうに首をコキコキと左右に鳴らした。
まぁ、ソレもソレで銀八先生らしいと言えば銀八先生らしい考え方かもしれない。
でも。

「でも、僕、銀八先生はいつかやっちゃいそうな気がしますよ」
「なんでだよ」
「なんとなく」

なんだよ、ソレ。銀八先生が笑った。
別になんの根拠も理由も無いけれど。
何か、そういう割り切った考え方を超える事態が、この人になら起こらないでもないんじゃないかな、なんて。
漠然と、そう思ったのだ。


会話が途切れた間に、手の財布をカバンにしまい直す。
そして顔を上げた時、不意に視界にゆらりと白い筋が揺れた。
教室では…と、いうより学校では、絶対に見るはずのない白い、煙の筋が。

「銀八先生…。なんでタバコ吸っちゃってるんですか」
「あらら〜?いつの間に」

悪びれない顔で先生は、開けた窓の外へとタバコの煙を器用に吐き出す。

「いつの間に、じゃないですよ!もしかしていっつもココで一人で吸ってたんですか?!」
「いや、ついだよ、つい。ついうっかり火ィ着けちゃって〜。やっぱツッコんでくれる奴いねーとダメだなァ、オイ」

言いながらも一向に火を消そうとしない銀八先生を見ながら呆れの溜息しか出て来ない。

「僕がチクったらどーする気ですか」
「さ〜。どーしようねェ」

まるで慌てる様子も見せずに携帯灰皿に灰を落とす銀八先生の余裕の表情は、まるで僕が誰かに話したりしない事を知っているとでも言わんばかりで。
なんとなく、癪なような。
それでいて…嬉しいような。

「…実習、もうすぐ終わりですね」

タバコの事は諦めて話題を転換すると、先生は大アクビを一つして体を伸ばした。

「ほんとだよ。よーやく開放されるよ、このおカタイ生活から」
「…おカタイですか?アレで」
「あたりめーだろーが。ジャンプ持ち込み禁止されちまうしよォ。喫煙室すらねーしよォ。購買にいちご牛乳ねーしよォ」

ウダウダとグチる銀八先生。
いつもコーヒー牛乳飲んでたけど、アレはいちご牛乳の代役だったのか。
僕はなんだかおかしくなって、吹き出した。

「笑い事じゃねーよ。その3つ、俺のHPだからね。今限りなくゼロに近いからね」
「だって3週間で文句言ってたら、本当に先生になったらどーすんですか」
「いや、だから俺、先生になるとは一言も…」
「銀八先生。僕、将来教師目指してるんですよ」
「は?」

唐突に切り出した僕の言葉の意図がまるで掴めないらしい先生は、訝しげな顔で僕を見る。

「いつかの質問の答えです。思い出しました。忘れてたけど」
「…」

『何が楽しくて、んな必死こいてべんきょーしてんの?』
いつだったか。銀八先生にそう言われたあの時は、思い出せもしなかった。
いつの間にか、小さな机の上が自分の居場所の全てとなっていて。そこを守ることに必死で。
顔を上げる余裕すら無かった。
なのに、どうしてだろう。
今は思い出せるんだ。
人に何かを教える職業に、昔から憧れていたこと。
そのために、教員免許が取れる学部のある大学を1年の頃から志望していたこと。
なんてことない。自分が歩いてきた場所にちゃんと落ちていた、答えを。

「まぁ僕は、銀八先生みたいな先生だけは目指しませんけど」

僕が言うと、銀八先生は眉間にシワを寄せて僕を見た。

「だから宇都君。そこは嘘でも銀八先生のよーになりたい、って言うとこじゃね?」
「僕お世辞うまくないんで」
「…そーみてェだね」

だって、当然じゃないか。
こんなめちゃくちゃな教師、世の中に2人もいらないよ。
でもまぁ。1人なら。
いてもいいかな、なんて。そう思う。
だから。

「…教員採用試験って難関らしいですよ」
「あ〜、らしいね。つーか俺ァ別に関係…」
「実習終わったからって安心しないで、勉強した方がいいですよ」
「いやいや、だから俺受けるとは一言も…」
「がんばってくださいね」
「…」

銀八先生は、諦めたように黙った。
そして、小さく口元で笑うと、
「へーへー、がんばります」
と、まるでがんばらない低いトーンで、そう言った。


後には、また、回るシャープペンシルの中で揺れる芯の微かな音が、放課後の教室に響いていた。