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その日、3時間目の国語の授業に坂田先生の姿は無かった。
教室には小笠原先生だけがやってきて、今朝の出来事には一切触れることなく、授業が進められた。
そして昼休みにも、坂田先生はA組に姿を現さなかった。




「坂田先生、どうしたのかな」

会話もまばらな昼休みの教室で、誰かがポツリとそう漏らした。
食事をする手が止まる。顔が上がる。
互いの視線が自然と交わった。

「…やっぱ、小笠原先生に相当絞られたのかな」
「そりゃ、そうでしょ。だって、ありえなくない?教生なのに、あんなの」
「でも坂田先生、なんかちょっと…すごくなかった?」
「普段がグダグダ過ぎだからギャップでそう思うんじゃね?」
「…それもあるけど」
「でも、俺は、なんかうれしかったけど…」
「うん。なんか、ね」

次々と飛び火するように繋がった会話は、そこで途切れた。
教室が、静まった。
多分、今一人ひとりが、坂田先生の言葉を声には出さずに復唱している。
あの時あの場面で。
あの普段誰よりもやる気の無い彼が、立ち上がり声を出した理由を、探ろうとでもするかのように。
あの言葉が耳の奥から離れない理由を。
探ろうとでもするかのように。

「実習打ち切り、とかって有り得るのかな」
沈黙を破って、誰かがそんな事を言い出した。

「えっ」
「あるの?そんなこと。聞いたことないよ」
「いや、だって、普段からアレだし…。すでに相当怒られてたし、いつも」

う〜ん、と全員がうなった。
その言い分、ものすごく納得。
その可能性、ものすごく大。

彼が実習生としてこのクラスにやって来てから2週間。
授業内容最悪。担当教師からの評価も最悪。努力や一生懸命とはまるで無縁。
形式上「先生」とは呼ぶものの、「先生」だと思えたことなど正直無い。
今までに見たことの無い、とんでもない教育実習生。
さっさと3週間の実習期間が終わって、勉強の邪魔をされない平和な学校生活が戻ってほしいと、何度も思った。
でも。

「残り1週間…なんとか、ならないかな」

横山さんが、誰にともなく問いかけるようにつぶやいた。
誰からも返事は無かった。
けれど、誰もが同じ答えであることを、僕らは知っていた。


「…あのさ、ダメ元なんだけど…」

僕が口を開くと、下を向いてテスト勉強していた時以上に悩ましい顔をしたクラスメイト達がこちらに注目した。
ついこの間まで、自分のことで目一杯だったはずなのに。あのおかしな教育実習生の事で、こんな顔ができるなんてね。
なんだかおかしくて、つい笑いそうになる口元を僕は引き締め直した。

「やるだけのこと、やってみない?」








放課後。
いつも通り図書室に行って勉強道具を広げてみたものの。
なんとなく集中できなくて、英文も公式も右から左へと素通り。
僕は諦めて、普段より早めに切り上げると廊下へ出た。
夕陽に伸びる自分の長い影を追う。
人気の無い3年生の教室前には、グラウンドから微かに届く野球部の練習の声だけ。
伴奏に乗せて規則正しくリズムを刻むかのように、自分の足音がそこに混ざる。
ふと、まっすぐ前。
そのテンポを崩すように、ゆったりと。廊下の向こうで、高い影が揺れた。

「坂田先生」

少し迷ったけれど、僕はその背中に声をかけた。
振り返った彼は朝の出来事など嘘のように、いつもと変わらぬ死んだ目で僕を見る。

「まーた図書室かよ。テスト終わったっつーのにマジメ君だな、オイ」
「先生は帰んないんですか」
「けーるよ、もう。ニコチンが俺を呼んでっからね」

じゃな、と短い挨拶と共に、片手を上げて坂田先生が再び歩き出す。

「先生」
僕は、もう一度呼びかけた。
「あー?」
今度は振り返らずに、立ち止まった背中から声が返される。

「…今日、どうして、あんなコト言ってくれたんですか?」

聞きたいことも、言いたいことも、たくさんあった気がする。
でも、今は質問がまとまらない。やっと出てきたのは、そんな問いかけ。

「さァな〜」
「だって先生はただの…」

ただの、教育実習生なのに。
付き合いは短期間限定。生徒に対する責任もなければ、仕事としての義務も無い。
担当教師に逆らうなんて、デメリットがあってもメリットがあるとは思えない。
そんな、ただの。

「俺ァ、大して考えてモノ言っちゃいねーよ。おめーらの将来になんの責任もねーし。実習終わりゃ関係ねーし」

僕が思った通りの答え。一旦途切れた会話は、彼自身の「けどよォ」という言葉で続く。

「小笠原先生は違うんじゃねーの?あの人ハンパねぇもん。おめーらの受験心配しすぎて、すっかり熱くなっちまってよォ。お陰でそこそこに済ますはずの俺の実習、エライとばっちりよ?」

実に面倒臭そうに白髪頭を掻く坂田先生に、なんと返事をして良いか僕はわからなかった。
何を言いたいのかが、よくわからなかったからだ。

「しかもよォ、今時大学ノート32冊使ってデータ管理ってどうよ?アナログぶりもハンパねぇし。パソコン使おーや、パソコン」

愚痴るような口調で、坂田先生はうざったそうに溜息をつく。
32冊、って。
A組の人数32人と、同じ数?

「それって…」

もしかして、と心をよぎった考えを確かめるべく、口を開いた。
けれど、それを遮るように。いや、それ以上言わずともわかる、とでも言いたげに。
坂田先生が先に続けた。

「入学からのテスト結果だの、苦手科目だの、志望校だの。よくまァ、あんなモン、マメに全員分手書きするよね。読むだけでもメンドくせェよ」

そういえば思い出した。
いつだったか、日誌を届けに職員室へ行った時。
小笠原先生が開いていた机の引き出しに、びっしりと並んだ大学ノート。
あの時は、気にも留めなかったけれど。
もしかして、あれが。
そうだ。いつだって、前回のテストの平均だの前々回のテストの順位だの。
驚くほどに様々な僕らのデータを小笠原先生は把握していた。
こんな点じゃお前の志望校には届かんぞ、なんて。
一人ひとり名前を呼んでテストを返しながら、眉間に深い深いシワを寄せて。
けれど誰一人漏らすことなく、声を掛けていた。

『コレ全部小笠原先生の受け売りみてーなもんスから俺が言うまでもねーっスよね』
今朝の坂田先生の言葉を思い出す。
意味のわからなかった、あの言葉。
この事を言っていたんだ。
坂田先生は僕たちのテスト結果を、小笠原先生のノートで知ったんだ。

「でも、ま。俺ァ嫌いじゃねーよ?アナログ」

坂田先生の言葉に、顔を上げた。
そうだ。
僕たちだって本当はわかっている。
小笠原先生はいつだって誰より熱心で、誰より僕らの受験に頭を悩ませている。
過ぎる時間に追われて何かが見えなくなっているのは、僕たちだけじゃない。
きっと小笠原先生も同じなんだ。
厳しい言葉も、平均にうるさいのも、結果がすべてと言い切るのも。
すべては、僕らに自信を持たせたいからなんだって事。
本当はわかっていた。
けれど、いつからかわからなくなっていた。
そう。自分の机の上しか見なくなっていた、あの時から。

「僕も、です」

坂田先生から目線を反らして、ぼそぼそと僕はつぶやいた。
なんだか照れ臭かったから。そして、後ろめたかったから。
誰に対してかは、よくわからなかったけれど。
坂田先生は、「そーかい」と一言残して、廊下を再びダラダラと歩いて行った。
なんとなく立ち尽くして、夕陽色に溶け込むその背中が階段に消えるまで見送っていると。
すぐ真横の教室…3年A組の戸がガラリ、と静かに音をたてた。
驚いてそちらを見ると、そこに立っていたのは小笠原先生だった。

「…小笠原先生」

いたんですか?!焦りがつい声に出そうになって、僕は口をつぐんだ。
けれど小笠原先生はそんな僕ではなく、やる気の無い足音が消えて行った廊下の向こうを眺めていた。

「…まったく、とんでもない実習生だな。アイツは」

呆れたように。怒る気力すらすでに持たないように。
小笠原先生は溜息を混じえて肩をすくめた。

「…本当ですよ。実習生で良かったです」
同じように廊下の向こうを眺めながら同意する。そして、
「小笠原先生が担任で、良かったです」
なんでもないことのように、そう、付け加えた。

小笠原先生は、何も言わなかった。
ただ、「気をつけて帰りなさい」と一言。
そして、坂田先生と同じように、廊下の向こうへと消えて行った。







翌日の昼休み。
坂田先生は、まるで何事もなかったかのようにA組の教室に現れた。
アクビをしながら、いつもどおりに菓子パンとコーヒー牛乳を片手に。

「オイオイ、宇都っちが勉強してねーよ。雨通り越して日照りが訪れんじゃね?雨乞いの儀式が必要じゃね?」

いつもどおり僕の机の前に椅子を置いて腰掛けた先生が、食べ終えたお弁当箱しか乗っていない僕の机を見て実に意外そうにそう言った。

「とりあえずはテスト終わりましたから。昼休みくらい休みますよ」

僕が言うと、先生はニヤッと笑って、
「休むときは目一杯休む潔さが男っつーもんよ」と、菓子パンの袋を開きながらうなずく。

「先生は休んでばかりっポイよね」
別の生徒からそんな軽口がかかる。

「バカヤロー。長年連れ添った夫婦が似てくるように、労働と休憩も日々の繰り返しの中で似てくるモンなんだよ」
「いえ、先生。素直に、ほとんど休憩してる、って言っちゃっていいですよ。もうバレてますから」

なんて、とりとめのない会話をしていると。
教室の引き戸がゆっくりと開いて、誰かが顔を覗かせた。

「坂田先生、ちょっといいかい?」

それは、学年主任の市川先生だった。
いつもおっとりと優しくて、生徒にも人気の高いベテラン先生。

「ああ、ハイ」

坂田先生はそう答えると、食べかけのパンを僕の机に放って、立ち上がる。
そんな様子に特に興味は無いとでも言いたげに、僕達は相変わらず食事を続けたり、おしゃべりを続けたり。
けれど、先生たちが廊下に出て教室の戸が閉められた途端、全員が立ち上がり、廊下側の壁やら戸やらに耳をくっつけた。
薄く教室の戸を開くと、微かに2人の会話が聞こえてくる。



「アレっスかね。やっぱ打ち切りっスか、実習」
「…ていう噂が出てるみたいなんだけどねぇ」
坂田先生が口火を切った問い掛けに、市川先生は、もったいぶったようにゆったりとした言い回しでそう答えた。
「噂?」
「まぁ、結論から言うと、打ち切りとかいう話は一切出ていないから。残り1週間、がんばって」
「は?え?マジすか?」
「そもそも、なんでそんな噂が立っちゃったのかねぇ。何?君、なんかしたの?小笠原先生を怒らせたとか?」
「…え〜、いや。別に何も」
「…それにしても」
「はい?」
「よくまぁ、この短期間で、アレだけ慕われたもんだねぇ」
「…は?」



教室の戸が開いた。
坂田先生が戻ってきた音。
僕らは何事も無かったかのように、席に着いて食事をしたり、おしゃべりしたり。
そんな僕らを一瞥して、先生は無言のままパイプ椅子に腰掛ける。
食べかけのパンを手に持ったものの、口をつけないまま、眉間にシワを寄せて数十秒。
そして、
「…お前らよォ。学年主任に、なんか、言った?」
ポツリと、そう言った。

「いえ、何も」

即答した僕を見て、他の生徒たちを見回す。
揃って、何が?という顔で首を傾げるA組一同。

「…いやいやいや。んなことねーだろ。だってよォ…」
「細かいこと気にしてる暇あったら実習日誌でも書かなきゃ、また小笠原先生に怒られちゃいますよ。銀八先生」

その言葉に、坂田先生は…銀八先生は、驚いたように僕を見た。
そして、ふっとおかしそうに口元を微かに緩めると、
「ハイハイ。宇都君の言うとーり。オッさん怒らせたらうるせぇからな〜」

パンをかじりながら、いつものようにやる気の無いトーンに戻ってそう答えた。

「銀八先生、最終週くらいマトモな授業してよね」
「あん?俺の授業に文句があるっつーのか。ぜってー今年あたり出るって。センター試験にドラ●ンボール。そん時おめーら俺にマジ感謝するって」
「出ないでしょ…センター試験には。間違いなく」
「バカ、おめー。悟●だって、そろそろ教科書に載ったり試験問題になったりしていいランクだって。日本を代表する名作だからね、アレ」


教室中をそのユルい空気に巻き込んで。
くだらない会話は、途切れることなく続く。
そしてそれは、人から人へと繋がっていく。
誰かが立ち上がる。
押された椅子が床を擦る鈍い音。
空いた席に誰かがまた腰掛ける。
笑い声。ざわめき。足音。そして笑い声。
窓の外は、今日も快晴。
なんてことない、昼休み。
ようやく見つけた、なんてことない、昼休み。

そんな教室の片隅で、タバコをくわえてライターに火を灯した彼に、
「いい加減学習しましょうよ!」
と、ツッコんだのは…僕だけでは、ない。
「違う違う」を言う隙すらA組生徒一同に与えられなかった銀八先生は、
「…俺ァおめーらに教えるこたァもう何一つねーよ。おめーらみんな、免許皆伝だよ」
と、何故か満足げにつぶやくのだった。