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テスト当日。

さすがに多少緊張気味だった教室は、朝のホームルームを担当した坂田先生の
「あれ?テストって今日だっけ?」
という一言で一気に脱力した。
これで程よく肩の力が抜けたとポジティブに考えておこう。
…なんて思えてしまうあたり、怖いもので僕たちはいつの間にやら坂田先生慣れ≠オてしまったらしい。

「テストっつーことは俺の実習は休みの方向スよね?」
真顔で尋ねる坂田先生が、「お前は日誌書いて次の授業の準備でもしてろ!」と小笠原先生に怒鳴られるそんな姿も、すっかりお馴染みとなってしまっていた。


ホームルームを終え、相変わらずダラダラとした足取りで教室を出ようとする坂田先生に、
「なんか激励の言葉くらい下さいよ」
と、言ってみたら
「あ〜ハイハイ。ま、いっちょかましてやって」
とか、小指で耳をほじりながら非常にいい加減な激励が返ってきた。

「ま、本番じゃねんだしそうリキ入れなくてもどーでも良くね?」
「たしかに本番じゃないですけど…だからってどーでも良くもないですよ」

そーゆーモンかねェ。
そう言いながら、坂田先生は教室を出て行った。
そーゆーモンか、と言われるとよくわからないけれど。
とりあえず、やるだけの事はやってみないと。
みんな頑張っていたんだし。
きっと何か、結果を出せるはず。
ただ、それだけ。


窓の外を見上げてみれば、今日も突き抜けるような青い空。
ああ、今日もこんなに
「いー天気なのにテストか〜」
心の中を先に言われたような台詞が後ろから聞こえて、つい振り返る。
そこには窓際の男子2人が空を見上げて話している姿。
「さっさと終わらせるに限るよね」
僕が声を掛けると、彼らは「本当だよな」と笑った。

不思議だった。
この緊張感の無さが。
いや、逆に、ついこの間までの緊張感の方が、不思議なのかもしれない。
このテストがどうでも良いわけではないし、確かな自信があるわけでもない。
けれど。
これが終われば、何かが見えるのではないかと。
今まで見えていなかったものが見えるかもしれないと。
ただ漠然と理由も無く、そんな期待を抱いている自分が一番不思議だった。






テストなんて、いつもそうだが始まってしまえばあっという間だ。
それまでの準備期間に感じた長さからすれば、驚いてしまう程に。
こんなもんか、と、安心と怖さがちょうど半々に心を占めて、終わる。いつも。

そしてなんてことなく、また始まる普段通りの朝。



朝のホームルームにやって来た小笠原先生が挨拶の後、僕らをぐるりと見渡した。

「テストの結果、今日あたりから各教科とも返ってくると思うが…」

不意に、緊張感。
もう?早いな。
終わったばかりなのに。
『物事、結果がすべて』
前回のテスト後、小笠原先生に言われた言葉が頭の中に蘇った。

教卓に両手をついた小笠原先生は、教室中の静かな注目の中一つ溜息。そして、
「ダメだ」
そう、言った。

みんなの頭が、周囲でゆっくりとうつむくのがわかる。
みんなだけじゃない。僕も。
机の上に、視線が落ちる。
これが終われば何か見える、なんて。
結局は前と同じ、か。

「前回より多少クラス平均は上がっているようだが…それでも去年のA組には及ばんぞ。こんなことでどうする。受験が間近だという自覚が足りんのじゃないか?」

みんな結構頑張っていたと思うんだけどな。
けれど、それだけに落胆も濃い。
やっぱり間違っていたのだろうか。
この時期に、無駄に友人と笑い合ったり、勉強を教え合ったり。
そんなことは、余裕のある人間がやることなのだろうか。
自分一人の中で鬱々としていた思いが、少しだけ晴れたような気がしていた。
けれどそんな事は、追われる日々から逃げたいだけの、甘い考えだったのだろうか。

「言っただろう。物事結果がすべてだ。気のたるみが結果に出ている証拠だ。無駄な時間の使い方をしているからこんな事に…」

「あの〜。ちょっといいスか?」

厳しい口調で僕らに述べていた小笠原先生の言葉を、場にそぐわない呑気な声が遮った。
みんな、驚いてその声の主を振り返る。
教室の一番後ろ。
パイプ椅子でホームルームの様子を見学していた坂田先生が、小笠原先生をまっすぐ見てだるそうに手を挙げていた。

「なんだ。今、大事な話をしているんだ。質問なら後にしなさい」
「や、質問とかじゃねーんスけど。結果がすべてっつーんならコイツら、いいセン行ってたんじゃないスか?」

唐突な坂田先生の言葉に、小笠原先生の顔が呆気に取られたように固まり、そして徐々に怒りの色が浮かび出した。
そりゃあ、そうだ。
急に話の腰を折られて、しかも、自分の意見を否定されているんだから。
教師ですらない、ただの教育実習生に。

「アンタが口を挟むとこじゃない。関係無いから黙っていなさい」
「まぁたしかに関係ないんスけど」

坂田先生は一旦言葉を切り、よっこらせ、と立ち上がる。
そしてそのいつでも眠たげな目線を生徒たちにゆっくり走らせた。

「え〜とそこの…横山サンだっけ?」

不意に指をさされた横山さんが、目を丸くして坂田先生を見上げた。

「理系苦手、とか言ってた割に、数学だけ今回すげー上がってましたよね。彼女」
「…」

黙っていろという命令にも従わずそんな台詞を投げ掛けてきた坂田先生に、小笠原先生の顔には再び怒りより呆気の色が濃くなり始める。

「あと、ちょっぴり太めの木村君?風邪で3日も休んで全然ダメ〜とか言いながら前回よりいい点取りやがるし。いるよね〜、そういう奴。それから宇都君」

え?僕?

坂田先生が僕を見る。いつも空を見上げている時と同じ、遠くに向けられているような目が僕を捕らえた。

「『苦手科目克服しないと意味ない』とか、デケェ口叩いてやがんな〜と思ったけど、かましてくれんじゃねーの。英語、クラスで1位だとよ。ま、その分他の教科ガッタガタだから平均最悪みてーだけど?」

苦手な英語を克服しないと、なんて。
そういえば最初の頃、坂田先生に言ったかもしれない。
でも、言った本人すら忘れている何気ない言葉を、なんで覚えているんだろう。
というより、どうして、今回のテスト結果だけじゃなく、前回の結果まで。

やっぱり、この人は。

「…何が言いたいんだね」

歯噛みをするような表情で、それでも苛立ちを抑えるように静かに。小笠原先生が言った。

「どいつもこいつも、てめーに勝てたんなら結果は悪かねェと俺ァ思ったんで。そんだけスよ」

そして坂田先生は、
「…ってコレ全部小笠原先生の受け売りみてーなもんスから俺が言うまでもねーっスよね」
と、意味ありげに口元に小さな笑みを浮かべた。

小笠原先生の、受け売り?
…それって、どういう意味なんだろう。

静まり返った教室。
生徒の目が、教室の後ろの坂田先生と、教卓の小笠原先生との間を何度も行き来した。
話題になっているのは自分たちのこと。
けれどどうして良いのかわからずに、ただただ2人を見上げる。

「つーかおめーらもよォ」

そんな僕らを、坂田先生がぐるりと見渡した。

「なんも終わっちゃいねーのに終わったみてーなシケたツラしやがって。ティーンエイジャーのくせに老け込んでんじゃねーっつーの。あん?コラ」

首を曲げてすごむように僕らに語りかける坂田先生は、まるで自分が教育実習生だという事を忘れているようだった。

「間違いなんざ油性マジックだろーが修正ペンで直しちまやァいんだろーが。デコボコでちったァみっともねーがよォ、折れねーくれェ分厚くもなんだろ。やり直しきかねーことなんざそうありゃしねんだよ」

やり直し。
そんなこと、考えた事もなかった。
1回1回の結果しか見えていなくて。
次のことなんて、考えてもいなかった。
このテストに失敗したら。
この受験に失敗したら。
頭にあるのは、いつもそれだけで。
『本番じゃねんだし』
あの言葉は、どうでも良くて言っているわけじゃ、なかったのだ。


「…もういい。実習生のくだらん説教など聞く気にもならん。」
小笠原先生の低い声。握った拳が、微かに震えているように見えた。
しばしの沈黙の後
「ホームルームを終わる」
そう告げて、小笠原先生は教卓に背を向ける。
そして、
「坂田先生。職員室に来なさい」
そう言い残すと、ピシャリと教室の戸を閉めてA組を出て行った。

「あらら…。来なさいって言っておいて戸閉めちゃったよ。やべ〜、相当キレてんな、アレ。かなり怒られんのかな〜、俺」

坂田先生が引きつった笑いで、頭を掻きながら歩き出す。

「先生、あの」

僕が立ち上がり声をかけると、坂田先生は振り返って
「もしかして今日ならキレすぎて倒れてくれんじゃね?」
と一言。
そしてその背中は、ゆっくりと閉まった戸の向こうに消えた。