4






今週は、テストがある。
そう思うと、何だかいつも以上に足取りの重い月曜日。
週末の勉強も思うようにはかどらなかったし。
こうなってくると、学校に来て授業を受けている時間すら惜しいような気がしてくる。

くたびれたスニーカーのノロノロとした足取りが向かう先。
通いなれた校舎の校門脇に、坂田先生がしゃがみ込んでいるのが見えた。
校舎に入る前の一服といったところか。
名残惜しそうに短くなったタバコを吸いながら、相変わらずぼんやりと、どこかを見つめて。
通り過ぎる生徒たちの、いぶかしげな目を一切はばかりもせず。

また、あの目だ。
斜め上、ずっと遠くを見上げるような。
何かを見ているようで、何も見ていないような、そんな目。
僕は、つい、その視線を追った。
けれどそこに見えるのは、カラスが3羽とまった電線と、1本向こうの通りにある7階建てのマンションだけ。
何も、ない。

僕は視線を足元に戻すと、無言で彼の脇を通り抜けた。



大体勉強がはかどらなかったのだって坂田先生のせいなのだ。
机に向かい、集中力が少し薄れ出すと途端に彼に言われた台詞が頭をよぎる。

てめーの机の上だけで。

どうして引っ掛かるんだろう。その一言が。
否定してみたり、同意してみたり、忘れようとしてみたり。
これまでの自分を、振り返ってみたり。
どうしてその言葉に、そんな事をしてしまうんだろう。





「坂田先生。木村君今日も休んでるから、ココ空いてますよ」

昼休み。
いつものごとく教室に現れた坂田先生に、女生徒から声がかかった。
ワリーな、とその席に座って、コーヒー牛乳にストローを刺す坂田先生。

「何。どしたの、木村君」
「風邪だって。先週から休んでますよ」
「マジかい。べんきょー好きのもやしっ子はコレだからダメだね〜。ガリガリだもんね、木村君」
「先生、木村君はガリガリじゃないです。むしろ太めです」
「あれ?そーだっけ?つーか木村君ってどんな奴だっけ?」

そんないい加減な会話を周囲の生徒と交わす坂田先生。
教育実習も2週目だというのに生徒の名前を覚えている、もしくは覚えようとしている様子は、彼には見受けられない。
まぁ、実際に教師になる気はなさそうだし。
そこまで実習に本気出す必要もないのだろう。
力を抜いて当然と言えば当然のことだ。
だから僕も、坂田先生の言葉に意味を見出そうとすることこそ、無意味なことなのだ。
きっと、そうだ。






テスト前日。
風邪で休んでいた木村君が、ようやく学校に出てきた。
何日休んでいたんだっけ。
…よく思い出せない。

「木村。もう風邪いいの?」

クラスメイトに対する自分の関心の低さに若干湧いた罪悪感を打ち消すように、僕は彼に声をかけた。

「あー、うん。も、平気。テスト前なのに3日も休んじまったよ」

そう答えて笑う木村君は、言葉の割に焦りが無い様に見えた。

「あのさ…宇都。坂田先生…なんか言ってた?俺のこと」
「坂田先生が?なんで?」

休み明けの木村君の口から何故急に坂田先生の名前が出てくるのか。
まるで繋がりがわからないで戸惑う僕に、木村君が、「実は」と口を開いた。

「休み中に電話かかってきたんだよね。坂田先生から」
「ええ?電話?なんて?」
意外な言葉に、僕は尋ね返す。
「『昼休み席借りたわ〜』って」
「…それだけ?」
「『宇都君最近イヤな顔するし、助かったからもうちょい休んでてもいーぞ』とか言って。病人になんの嫌がらせかと思った」

そう言いながらも彼の口調は怒っている様子も無ければ、呆れた響きも無い。
変な人だよな、なんて言いながら先を続ける木村君。

「俺さ、テスト勉強進まないしちょっと焦ってたから聞いたんだよね、坂田先生に。みんな勉強進んでるみたいですか?って。そしたら『俺のテストじゃねーし、知らねーよ』って。『おめーもおめーのテストなんだから他の奴関係ねーだろ』ってさ」
「…」
「でもこの分じゃいい点取れそうにないし、って俺がブツブツ言ったら、『いんじゃね?点悪くても言い訳あんだし、次もあんだし』とかすごいどーでも良さそうに言われて。で、『じゃ明日も席借りるわ』って一方的に切られた」
「…わざわざそんな電話してきたの?坂田先生が?」
「なんかあのやる気の無い声聞いてたら、まいいかって思っちゃって。つい、ゆっくり休んじまったよ」
お陰で全快したけど、なんて。
木村君は毎日学校に来ていた僕なんかより、ずっとスッキリした表情で笑った。

坂田先生が。そんなことを。
何一つ僕たちのクラスになんて興味の無さそうな顔をして。
何一つ見ていないようなぼんやりした目で。
深い考えがあってのことなのかは、わからない。
ただ、なんとなく電話してみただけなのかもしれない。
けれどその行動は、クラスメイトである僕らのうち誰もが思いつかなかったことで。
こんな時期に3日も学校を休んでいる友人に、誰か一人くらい声を掛けたって良さそうなものなのに。本当なら。

何一つ見ていないのは、僕らのほうか。
机の上しか、見ていないんだ。きっと誰もが。





その日、昼食を終えると僕は、机の中から英語の教科書とノートを引っ張り出し、小脇に抱えて立ち上がった。
そのまま教室の後ろへ向かう。

坂田先生にあんなこと言われたからじゃない。
そういうわけじゃ、ないぞ。

窓際1番後ろの席の前で僕は立ち止まった。

「あの、横山さん。ちょっとだけ英語のわからないとこ教えてもらえないかな」

数学の参考書と睨めっこしていた彼女は、驚いたように視線を上げて、恐らく決まり悪げになっているであろう僕の顔を見た。

「えっと、自分の勉強終わってからでいいし、今日じゃなくてもいいんだけど…」

慌てて付け加えると、彼女は「いいよ、座って!」と自分の教材を寄せて僕のためのスペースを作ってくれた。
この間、僕は拒否したと言うのに。

「何、宇都、英語苦手なの?」
唐突に横山さんの隣の席の男子から声が掛かった。

「うん。なんか文法とか全然理解できないんだよね」
「えー。お前頭いいのに。ていうか俺も英語ダメ。横山さん得意なの?俺も教えて」

机を寄せ合う人数が、増えた。
このやり方が正しいのかなんて、わからない。けれど。

「宇都。文法ならこの参考書すげーいい。駅前の本屋に売ってた」
「あ、私もそれ持ってる」
「え?マジ?帰り買いに行こうかな」

とりあえず、机から立ち上がってみること。
僕には他に、方法が思いつかないから。
何か、見えるだろうか。
こうすれば僕にも、見えていなかった何かが見えるのだろうか。





「…坂田先生」

教室の前の戸がガラリと開き、入ってきたのは小笠原先生だった。
あれ?まだ昼休み、終わっていないのに。

「はい?先生も昼メシっスか?」

呑気な声を出す坂田先生を見下ろしながら、小笠原先生は手に持ったものを突き出した。

「この実習日誌!書き直し!」
「え゙え゙?!書き直しって、そんなご無体な」
「ご無体でもなんでもないよ!何だこれは!こっちが黙っていれば、初日からどんどん文字大きくしやがって!昨日なんか2行分のスペース使って1行分の文字、って、ズルしすぎだ!こんな日誌見たことないよ!」

小笠原先生が開いたページの文字は、たしかに、小学1年生のひらがな練習帳?みたいな大きな文字が並んでいる。
スペースを埋めるための作戦なんだろうけれど…あからさますぎだ、それじゃ。

「いや、その位の方が老眼にも優しんじゃねーかな〜と思いまして」
「俺はまだ老眼じゃない!」
「…ハイ。すんません」

それ以上の反論は諦めたらしい坂田先生は、椅子に座ったまま引きつった顔で下を向き、小笠原先生のガミガミを聞いている。
僕たちは、知らぬ顔でそれぞれ勉強しているフリ。
10分後。
「今日中に全ページ書き直して再提出!」
そう言い残し、小笠原先生は教室を出て行った。
その背中を見送った後、静かに勉強を続ける僕らを見渡した坂田先生。

「…おめーら、マジでちょっとも助けてくんねーのな」
ポツリとつぶやいた。
その情け無い物言いに、とうとう堪えきれなくなり、教室中が笑い声を上げた。

「だって、自業自得じゃないですか」
「冷てェよな〜。黙って見てるかよ、フツー。お前ら、アレだよね。絶対1人で逃げるタイプのメロスだよね」
「先生だって、俺は助けに戻らない、って言ってたくせに」

そーだそーだ、と全員深く同意。

「冗談じゃねーぞオイ、書き直し。俺の放課後の予定がダダ狂いじゃねーか。あ、宇都君、実習日誌書く貴重な経験とかしてみたくない?」
「してみたくないです」

僕が笑ったまま冷たく突っぱねると、坂田先生はがっくりと肩を落としながらタバコをくわえて、また「…違う違う」と言っていた。



やれやれと溜息をついて顔を上げながらも、まるで実習日誌に手をつけようとしない坂田先生の死んだ目の見る先を僕はもう一度追ってみた。
窓の外には、何も無い。
無機質なアルミサッシの窓枠の向こうには、ただ青く、てっぺんなど無い様に広がる。それは。

ああ、そうか。
空が見えるんだ。

今日は、こんなに、天気が良かったんだ。