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「つーことで、メロスは3日以内に親友を助けに戻らなきゃならなくなったわけですが〜」

坂田先生の教育実習は、1週目も終わりに近付き。
授業内容は、相変わらず『走れメロス』。
大きく『メロス』と書かれたきりまったく活用されていない黒板の前で坂田先生が教科書片手に話している。

『メロス』って…。黒板にわざわざ書く意味あるんだろーか。
ていうか、文字がユルすぎて『メロヌ』に見えるんだけど。

「で、どーよ?お前なら、助けに戻る?」
いきなり指を差された男子生徒が「えっ」とたじろぐ。
「えーと…戻りますよ。もちろん」
「あ〜?マジでェ?嘘ついてね?ちょっと好感度上げようとか思ってね?」

「先生戻らないんですか?」
その隣の女生徒が小さく尋ねると、
「戻んねーよ。俺ァ信じてるからね。アイツなら自分の力で逆境を乗り越えられるって信じてるから」
と、よくわからない答えが返ってくる。
アイツの何を知ってるんだよ、アンタは。

「つーかよー、頭ワリーわ、メロス。もっとうまくやんねーとよー」
「うまく?」
「コッソリ城に侵入して2人で逃げちまえばいんだよ、こんなもん。赤外線の隙間をすり抜けるとか、警報が反応しないように屋上からワイヤーで降りてくるとかしてよー」

「…ソレ国家機関に属するスパイのレベルじゃないですか…」
グダグダな授業に通り越した呆れが、ついボソリと声になって出た。
敏感にその声を聞き取った坂田先生の目線が、僕に向けられる。
「よーし、宇都君。そのツッコミだよ。あとはもう少しキレがほしいね」
「…」

ツッコミだけマジメに指導されても。何一つ、役立ちどころがないんですけど。
ていうか何でツッコんじゃったんだ。不覚。
クラスからは、クスクスと小さな笑い声が起きている。
チラと後ろを見ると、腕組みしてパイプ椅子に座る小笠原先生は怒り爆発数秒前といった顔。
坂田先生も気付いてないわけないだろうに。あの青筋たった表情に。

いいんだろうか、教育実習生ってこんなことで。
いいんだろうか、受験生の大事な授業がこんなことで。

不安は募るけれど、かったるそうに慣れないらしいネクタイを指で引っ張りながら話す坂田先生の呑気な声を聞いていると、なんだかここ最近の焦りや緊張感すら、どうでも良いものに思えてしまいそうだった。





昼休み。
横山さんは僕の机にまた数学の問題を聞きにやって来た。
僕も教えてほしいところがあったから、ちょうどいい。

「なによ、おめーら。もうこのままできちゃいそーな勢いじゃね?」

僕の向かいでチョココロネをかじる坂田先生の横槍はスルー。
後ろからは、同じように頭を寄せ合い、机を合わせて勉強するクラスメイトたちの声がいくつか聞こえてくる。
何日か前までは、誰一人自分の席から動こうとしなかったというのに。

「いいなぁ。宇都君は数学得意で」

横山さんが数字の羅列されたノートを見ながら溜息交じりにそう言った。

「え、でも文系はガタガタだけどね」
前回の英語の点数を思い出しながら、苦い思いで答えると、
「だって、獣医目指してるのに理系苦手、なんてマズイよね?私」
不安そうに横山さんが顔を上げる。
「へー、そうなんだ」

特別に親しいというわけでもない間柄なのだから、当然といえば当然だけれど、そんなのは初めて聞く話で。
いや、彼女だけじゃない。
今こうして受験勉強に励んでいるクラスメイトのうち、目標を知っている奴なんて、いないよな。そういえば。

「宇都君は?いつも一生懸命だけど、何か目標があるんでしょ?」
「えっ。いや、え〜と…」
僕はつい、口ごもった。

「オイオイ、ついに夢語りだしちゃったよ。本格的青春学園ドラマ目指すんですか?青い春にアミーゴですか?コノヤロー」
そう口を挟んでくる坂田先生の冷ややかで小憎らしい物言いに、なんだか急に恥ずかしくなって、
「無いですよ、別に。夢とかそんな」
と、僕はつい否定した。

「あ〜?じゃあ何よ。何が楽しくて、んな必死こいてべんきょーしてんの?宇都っち、Mな感じ?」

いぶかしげに眉を寄せる坂田先生。
僕はそれ以上何も言い返せなくなってしまった。
何のために、って。
…テストで良い点を、とるため?
目標なんて、そういえば。
最近、考えた事もなかった。

さっきまで、あの問題がどうだ、この公式がわからない、と言葉を交わしていたクラスメイトたちも、ほんの一瞬静まった気がした。
多分、みんな、同じ事を自問自答したんじゃないか、なんて。
僕の勝手な想像だけれど。

「ま、いーや。俺にはかんけーねーし」

坂田先生は本当にどうでも良さそうにそう言うと、それ以上僕の答えを待つでもなく、後ろ頭で手を組み、目を閉じた。

「…坂田先生は将来教師になるって夢があるから、教育実習マジメに頑張ってるわけですもんね」
多少の皮肉を混じえて僕が言うと、坂田先生は「あ?」と目を開けた。
「俺、別に将来教師になるとか決めてねーよ?」
「え?そうなんですか?」
「とりあえず教員免許くらいとっとくのもアリかな〜と思って来てみたけど」
「…」

ああ、そう。
普段のやる気のなさの理由が一気にわかったよ。

「じゃあ嫌々やってる感じなんですか」
「別にィ。てめーで決めて来たのにわざわざ嫌々やるこたァねーだろ。そこはてめー次第じゃね?日誌だの計画だのはメンドくせーけど」
「…嫌じゃないんですか、実習。怒られてばっかりに見えますけど」
「ま〜な〜。オッサンな〜。すぐキレっからな〜。やっぱ評価下がっと免許取らしてくんねーのかな〜。だからってオッサンに愛想振ってもな〜」
ウダウダと椅子を揺らしながらグチる坂田先生。
でもまァ、と一旦切った言葉を繋げる。
「俺には縁のねぇ、優等生なんつーのを間近で見れておもしれーからいんじゃね?あとはな〜、教育実習生っつったらモテるもんだと思ってたのに構ってくれんの宇都君くれーなのが華がねーっつーか。もうちょっとこう、女子がキャッキャ言ってくれりゃあ充実すんだけどよォ〜」

わざと訴えるような物言いに、クラスの女子数人が、クスクスッと小さく笑い声を立てた。

「何よ、意外に脈アリ?繰り返すけど俺、彼女ぼしゅー中なんで」

「生徒に手なんか出したら小笠原先生、倒れるくらいキレますよ、きっと」
僕の隣で、横山さんが笑いながら言った。
「あ〜、ソレはソレで見てみてーな。倒れさせちまえば、ある意味こっちのモンだからね」

「…たしかに見てみたいかも」
僕の後ろの女子が坂田先生の言葉に賛同する。

「いっつも顔こえーから、倒れてる間にマジックで笑顔にしとけば平和な感じになんじゃね?」
その隣の男子がそれに続く。
ソレ、いい!
周囲の数人から笑いが起こった。

「おめーら結構ハナシわかんじゃねーの」

口元で笑いながら、坂田先生はポケットに手を入れ、タバコを取り出す。
くわえて火を付けようとして、寸前で「違う違う」

「いや、何回やるんですか!」
僕がつい声高にツッコんでしまうと、先生は一瞬黙った後、ニヤリと笑い、そして、
「宇都っち、い〜ツッコミすんじゃねーか。その感じで頼んだぞ?これからも」
なんだか満足げにそう言って、僕の肩をポンと叩くのだった。


なんか、こんな風に声を上げるのも。
授業中や休み時間に、クラスから笑い声が起こるのも。
久しぶりな気がする。

けれど、いいのかな。これで。
楽しいとか言ってる場合じゃないって。
そう言ったのは自分じゃなかったか?
次のテストにだって、本番の受験にだって、時間は近付いていく一方なのに。
こんなことじゃ、だめだ。
何、ペースに巻き込まれてるんだよ。
たかが教育実習生の。

「あのさ、横山さん。そろそろ僕も自分の勉強したいから…」

焦燥感に駆られて僕が言うと、彼女は、
「そうだよね?ごめんね、つい頼っちゃって…」
と、慌てて立ち上がり自席に戻って行った。

その申し訳なさ気な表情と、うつむく後ろ姿に、なんだかものすごく悪いことをしたようで。
また何が正しいのか、よくわからなくなる。
今まで積み重ねてきた自分が、グラつきそうだ。
こんなに優柔不断だったんだろうか、僕は。


「宇都っちィ」

手元の参考書に目を戻した僕に、向かい側から例の気だるい声が掛かる。
顔を上げると、彼はいつものようにぼんやりと窓の外を見たままだった。

「…なんですか」
「脇目なんてモン振らねーに越したこたァねーだろーけどよ。てめーのクソ狭い机の上だけで決着つくことなんざ、そうありゃしねーぞ」

淡々とした坂田先生の台詞に、僕は言葉をなくした。
何言ってるんだよ。この人。
なんで、急に。
そんな、まるで、僕の考えていることがわかってるとでも言うかのように。

僕はもう一度、自分の手元を見た。
ノートと参考書、ペンケース。転がるシャープペンシルと消しゴム。
自分の両腕2つが乗って、それで一杯の、僕の机。
ここから立ち上がれば。脇目を振れば。
何か、見えるとでも言うのかよ。

彼は僕に返事を求めようともせず、ただ気の無い顔で外を見ている。
もしかして、この人は。
本当は、やる気の無い実習生なんかじゃなくて。
本当は。

「な〜な〜、宇都っち。つーことだから、勉強一旦休憩して、学級委員権限で、俺が教室でタバコ吸っちゃってもナイショにすること、っつー決まり作ってくんない?300円あげるから」
「…」


前言撤回。
100%、ただのダメな教育実習生だよ。この人。