今日もふと気付けば、開かれたこの掌は、あの空へと伸ばされている。 いつからかは知れないが、どうやらこれは癖らしいと自覚したのは、ごく最近の事。 伸ばしたところで何かに届くわけもない指先は、ゆらゆらと空を掻くだけ。 夏には夏の。 冬には冬の。 変わりゆく空気にそっと触れるだけ。 何をしているのかと尋ねられる度、返す言葉は、「なんとなく」。 だって言葉はいつだって脆くて、頼り無くて、そのクセ乱暴で。 時には、大切な想いすら台無しにしてしまうものだから。 迷い無く開いたこの掌も、その指の隙間からこぼれる気が遠くなりそうな青も。 そのすべてを無理矢理言葉にしたなら、それは途端に心を離れて、空言へと成り果てる。 |
空へとまっすぐに広げた手。 そこにもう一つ。後ろから大きな手が重ねられた。 空に向けたこの手に、そっと添えるように。一緒に何かを追うかのように。そして、支えるかのように。 「…何してんですかィ。土方さん」 背後に立つもう一つの手の主を、首を反らせて見上げた。 逆さまの視界の中で、彼はそんな己が手を見つめながら、 「…何だろうなァ」 と、とぼけた口調で首を傾げる。 銀色の髪が遠い青に映えて、透けるように光って。 ふらりとゆるい風に揺れた一房は、どこからかはぐれた雲の欠片を思わせた。 「わかんねーけど。つい、なんとなく?」 そのままの体勢で彼は空を見上げ続けながら口を開く。 釣られるように自分も、もう一度2つの手越しの空を見た。 「なんとなく、で付き合って手ェ挙げてくれるほどお人好しでしたかィ?アンタ」 「そうねェ。何なんだろうねェ」 空なんかよりもずっと向こうを眺めているかのような、どこか上の空な口調。 本当に上の空なわけではない。彼はいつも、こんな話し方をする。 「まァ、そうだなァ。強いて言うなら…」 少しの間の後、背中から降ってきた声。 下ろそうとしていた手が大きな掌にぐいと押し上げられて、また空へと伸びる。さっきよりも、遠くへ。 その行動の理由を求めて振り返ろうとしたら、先に答えがやって来た。 「後押し?」 「…なんでィ。後押しって」 「なんだろな。わかんね」 そう言うと彼は、そんな自分が可笑しいとでもいうかのように、小さく声を上げて笑った。 「そんなん頼んじゃいねーよ?アタシ」 「そうねェ。頼まれちゃいねーな」 「後押しって、してもらったらどーなんの?」 「別にどーにもなんねーんじゃねーか?」 「土方さん、わけわかんねーや」 「まったくだ。わけわかんねーな、俺」 まるで無意味ないくつかのやり取りの後、溜息と共に手を下ろした。 後ろの男を振り返る。 見上げ続けていた目に沁みる空色が視界を霞ませて、その姿が一瞬青に滲んで見えた。 「アタシを押してる暇があんなら、アンタが手ェ伸ばしときゃいーじゃねーですか」 「ま、気が向いたらな」 「手ェ上げんのキツイ歳になる前に、とっとと気ィ向かせた方いいですぜ」 「ソレって何?五十肩的なアレのこと?早くね?」 「そーでもねーでしょ。オッサンてのは自分の気付かねートコで日に日に侵食してるもんでさァ」 「ヤベーな、オイ。枕嗅いでみっかな」 眉間にシワを寄せながら、彼は隊服の胸ポケットから取り出した煙草に火を灯した。 「ま、とりあえず」と気だるげにつぶやきながら、大きな伸びを一つ。 筋を描いた煙が、しゅるりと空へ溶けて散る。 「今日も元気に市中見廻りと行きますかねェ、沖田隊長」 「たりーけど、そーしますかィ。土方隊長」 「なんで俺格下げされてんのよ。副長と呼びなさい副長と」 「そろそろ引退でいーんじゃねーですか。跡ならアタシが継ぎますぜ」 「…オッサンもまだまだ若いモンには負けねェっつー悪あがきがしてーのよ」 情けないツラに笑いながら、さっきまで伸ばしていた掌で、腰の獲物に触れた。 たしかに触れる固い感触。この手が掴むべき、ただ1つのもの。 見上げた空は果てしなく、青い。 まだ少しだけ肌寒さの残る春風を無防備に受けていた掌は、ひんやりと白い。 けれど奴の掌が添えられていた手の甲だけが、風に触れず温かいままだった。 求めているのは、伸ばした指先が届いてしまうような低い空などではなく。 行き場の無いこの手を、握ってくれる掌でもない。 けれど、それでも。ふと気付けばこの手は、今日も空へと伸びている。 理由は、ただ、「なんとなく」。 それ以上はいらない。 使い古された台詞も、乱暴なまでの理屈も。そんなものはいらない。 いつだって言葉は、少なからず空言。 それよりも、たしかなもの。 訳も無く後押しするもう一つの手の温度と、同じ場所へと向かうこの足とが。 何よりも、たしか。 それだけでいい。 例えこの冷たい掌には、何も残らずとも。 |