屯所の朝は早い。 いや。朝も夜も無い、と言うべきか。ついでに言うなら盆も正月も無い。 お天道様がどの位置にあろうが、月がてっぺんで満ちようが欠けようが。 この街のどこかでは常に幕府に仇なす輩が蠢いていて、こちらの時間や都合など関係無く、事が起きる時は起きる。当然に。 事なんて起きぬまま済ませられるのなら、それに越したことは無い。だが。 そう平和に済ませられるような街ではない事も、既に十分過ぎるほど経験として体に染み付いている。 古い木の床が軋む廊下の柱に背をもたれて、だだっ広いだけの庭を眺めながら煙草に火を付けた。 せわしい羽ばたきと共に舞い降りた雀が2羽、首を揺らして土中の虫をついばむ。 まったくもって、平和な景色。 吐き出した煙の向こうで、穏やかな朝の光は幻のように霞んだ。 |
「トシ」 呼び掛けに振り返れば、廊下の向こうから歩いてくるサングラスに無精髭の男の姿。 市民の安全を護る組織のトップにいるとは一見思えぬ胡散臭げなそのナリの主は他でもない、自分にとっての唯一の上司。 「…いつ見てもアンタ、爽やかな朝にゃ浮くねェ、近藤さん」 見慣れた姿ながらも、たった今まで眺めていた景色とのギャップについ思ったままが口を付く。 「オイオイ、何言ってくれちゃってんだ。俺ァおめぇと違って朝の目覚めはスッキリだし、ラジオ体操も毎朝第2まで欠かさねェ。この上なく朝の似合う健康的なオジサンだよ?」 「いや、ちっとばかり健康オタクなヤミ金の社長にしか見えねェよ」 ええぇ?おかしいなァ、などと、とぼけた口調で言いながら我らが真選組の社長…もとい局長は、ポケットから煙草を取り出した。火の灯るライターを差し出すと、咥えたそれを渋い顔で吸い付ける。深く眉間にシワの寄るその表情は、朝の似合う健康的なオジサンの表情では無い。間違いなく。 「トシ、おめぇ、昨夜夜勤だったはずだろ。他の奴らはとっくに交代して休んでんぞ」 「ああ。休むよ、俺も。あとで」 「おめぇ、ここんとこロクに寝てねーだろ」 「…」 さすがに目ざとい。 普段は部下の細かい行動や生活態度にまで口を出してくるような人では無い。どちらかと言うとそれはこちらの仕事となっている。だからと言ってこのグラサンの向こうの目が何も見ていないかと言えば、そうでも無い。こうなってしまえば、適当にごまかし切れる相手ではないのだ。 「…この間上げた浪士どもの残党がどうもキナ臭ェ動きしててね。ま、俺の杞憂かもしんねーが、用心するに越したこたァねーだろ」 正直に気掛かりの原因を説明すると、彼は呆れたように空を仰いだ。 「ほんっとおめーは人任せに出来ねーヤローだなァ」 「そうかィ?そーでもねぇだろ。実際走り回らせたり張り込んだりさせてんのは山崎だしよ」 「なら寝りゃいーじゃねぇの」 「わーってますって」 その返事に納得がいかない様子の局長は、煙混じりの溜息を吐く。 「俺に言われたかねーだろーが、おめーもそろそろ無茶のきく歳じゃねーのよ?んなことじゃ長持ちしねェぞ。俺にもしもの事がありゃ、真選組は副長のおめーに掛かってくんだからよ。ちったァその辺考えてくれや」 ありがたい言葉だ、とは思う。だが、それは違う。自分はそんな事のためにここにいるのではない。 そう思って見上げた隣の男の、普段の飄々とした様子とは少し違う真顔につい口元が緩んだ。 「近藤さんよ。アンタにもしもの事がある時ゃ、俺ァもう既にこの世にゃいねェよ。俺の目が黒いうちはアンタにもしもの事なんか起こさせやしねー。副長っつーもんの本来の役割なんざよく知らねェが、俺の立ち位置はそっから動く気はねェよ」 「…苦労性なヤローだよ、おめーは。もっと楽に生きてくれや」 元来から渋い顔を更に渋くして、長くなった煙草の灰を灰皿に落とす近藤局長。 苦労性ねェ。 好きでやってんのに、コレも苦労性っつーのかね。 「土方ァァ!」 「でっ!」 急に背中に衝撃が来て、前のめりに2、3歩ステップを踏んだ。危うく廊下から庭へと転げ落ちかける。 誰だ、と確かめるまでもない。 曲がりなりにも副長である自分にこんな無礼極まりない行動をとる奴は、この屯所内にただ一人しか、いない。 「いきなり何しやがんだ、てめーはコラ」 振り返れば悠然とこちらを見上げる2つの目。 右手に持った特別製の傘は、いかにもこれで殴りましたと自白するかのように振り上げられたまま。 「すいやせん。ガラ開きだったもんで、つい」 事も無げにそう言う沖田に、驚く精神は今更持ち合わせちゃいない。 「ガラ開きならなんの脈絡も無く攻撃しかけるんかい」 「朝っぱらから、しけた話が聞こえてきたからねェ。景気づけでさァ。局長の『もしも』にこの世にいねーような情けねー奴より、アタシのが副長にふさわしーや。ね?近藤さん?」 フンと鼻を鳴らしながら、至極当然といったツラで男2人を見上げるコイツに、近藤局長がおかしげに笑いを漏らした。 「まぁ、トシが脱落するっつーんならそーなるかもなァ」 「やっぱり?じゃあ脱落してくだせィ、土方さん。人生から」 「いや、意図的に脱落させられるっつー想定で言ったわけじゃねーんだけどね、俺」 こんなものも、大概いつも通りのやり取り。 一服も済んだ事だしそろそろ見廻りに戻るか、と2人に背を向けようとした時。隊服の裾が思い切り引っ張られた。 「…何」 裾を握ったまま、まっすぐにこちらを見上げる沖田を首だけで振り返る。 「困りますよ」 「はぁ?」 さらりと言われたその台詞の意図が掴めず、つい素っ頓狂な声が出た。沖田は動じることなく続ける。 「んな寝惚けたツラして現場出られちゃ、いざって時使いモンにならねーじゃねーですか」 「ワリィが寝惚けたツラは生まれつきでねェ」 「困るんでィ。アンタにもしものことがあっちゃ、アタシが」 「ああ?何らしくねェ殊勝な事言ってんの?お前」 「だって、土方さんと暴れんのが一番おもしれーんだもん。アンタがいねー真選組なんて生ぬるくておもしろかねーや。アンタが刀振ってる限りアタシはずっと隣にいてェの」 「…」 世辞や気遣いや建前や。そんな処世術などまるで持たないコイツは、ただただ当たり前のように。 こんな事を言いやがるのだ。 その言葉の意味するところすら知らずに。 『ずっと』なんて言葉の、脆さすら知らずに。 「あ、でも副長の座はいずれアタシがぶん取りますけどね」なんて末恐ろしい言葉を、笑顔で付け加えながら。 「つーことなんで。その寝惚けたツラちったァマシにしてきて下せェ。なんか動きがあったらアタシが叩き起こしまさァ。その代わり多少手ェ滑っても勘弁ってことで」 それだけ言い残して、沖田はその場を小走りに去って行った。 廊下の片隅には、最初と同じ。いいトシこいた野郎2人が取り残される。 隣で一部始終を、恐らくあえて黙って見守っていたのだろう近藤局長が、クク、と堪え切れなくなったかのように肩を震わせ出した。 「なんだァ?ありゃ。新手のプロポーズか?色気もクソもありゃしねぇなぁ」 「…んなモン何も考えてねーに決まってんでしょ。あのガキゃ」 思いがけず深く出た溜息と共に、頭を掻いた。 そう。心底深い意味は無いのだ、アイツには。ただ思った通りを臆すことなく、言い放つ。いつだって。 「鬼の副長もアイツにかかっちゃ形無しだねェ。トシよ」 「ま、唯一の救いは俺が形無しだっつー事をアイツが知らねー事に尽きるがね」 脱力ついでに欠伸が出た。 次いで眠気も襲ってくる。 「…じゃ、俺、形無しなんでちょっくら仮眠とってきますわ」 片手を上げて、その場を去ろうとする、と 「トシ」 すかさず呼び止められた。 「車とか机じゃなくて、床で寝ろよ。局長命令な、コレ」 ニヤリと笑ってそんな事を言われると、敵わねェな、と思う。自分のとりそうな行動など、この人にはお見通しなわけだ。結局いつだって。 「…へーへー」 返事と共に、再び背を向け歩き出す。自室に向かって。 あの人のタチがワリィところは、俺が結局あの人にも形無しだっつー事をハナから見抜いてるって事に尽きる。 もう一度、溜息をついた。 すぅ、と襖が淀みなく横に滑る音。 廊下から部屋へと上がる足音は、微かな衣擦れの音と共にこちらへ近付いてくる。 恐らく忍ばせているのであろうその僅かな気配は、すぐ脇で止まった。 「…動いたか?」 畳の上で目を閉じたまま、その気配に声を掛ける。 「まだ」 返ってきたのは予想通り、女の声。 「…相変わらず眠り浅ェの、土方さん。寝首掻けねーじゃねーですか」 目を開けて声のする方を見やれば、横たわる自分の隣で壁にもたれ、膝を抱えて座る沖田がいた。 「どーしたよ。サボリか?」 「うん」 「上司の部屋でサボリたァいい度胸じゃねーの、オイ」 壁の時計に目をやれば、既に仮眠には程よい時間が経っていた。 寝転がったまま組んだ足を揺らして、恐らくただサボるがためにここに来たのではないだろうコイツの次の句を待つ。それを察してか、さほど経たないうちに沖田が口火を切った。 「近藤さんがさァ」 「近藤さんが?」 「結婚してガキ生むっつー道も俺的にはオススメだぞ、とか言い出してさァ。急に」 「…へぇ」 なるほど、と思う。このいじけたツラはそのせいか。 近藤さんも近藤さんでわかりやすい。 先程の『ずっと土方さんの隣で暴れる』宣言。あれを聞いて、笑いつつも心配になったのだろう。 そりゃそうだ。なんだかんだ言ってもコイツは、本来選択肢なら豊富にあるだろう若い身空の女なのだから。 「心配なんだよ、近藤さんは。わかってんだろ?おめーがかわいくてしゃーねんだよ、あの人ァ」 「けど江戸で一旗上げるって決まった時、『一緒に来るか?』っつったのもあのオッサンのくせによぅ」 「あん時と今とじゃ気持ちなんざ変わってたっておかしかねーだろ」 「変わっちゃねーよ、アタシは」 ますます口を尖らせて、不満げに沖田は抱えた膝を揺らした。 本当は知っている。 この手の話はコイツの一番苦手とするところなのだ。 結婚どうこうがではない。女扱いされる事がでもない。 真選組を離れろと仄めかされるような、そんな話が苦手なのだ。いや、むしろ怖いと言ってもいいのかもしれない。 江戸に来たばかりの頃は、いつ『武州に帰れ』と言われるかと。それに怯えている節があった。とは言え、今も昔も、『離れろ』と言ったところで黙って離れるようなタマでもないはずなのだが。それでも。 嫌なモンは嫌、なのだろう。 伸びをして、起き上がった。仏頂面を振り返る。 「要はおめーがどうしてぇのか。それだけだろ、近藤さんは。おめーが、ここにいてーっつーんならいりゃあいいさ」 首を鳴らして立ち上がり、黙って真っ直ぐ前を睨んだまま座り込んでいる沖田の頭に手を置いた。 「ずっと横で暴れてくれんだろ?未来の副長さんよ」 驚いたようにこちらを見上げた沖田が、数秒黙ったままこちらを見つめる。そして返事の代わりに、笑った。満点のテストを褒められたガキみたいに、めいっぱい嬉しげに、そして誇らしげに。 襖を開けると、太陽はだいぶ真上に近付いていた。 隊服を羽織り刀を差す、慣れた身支度。 廊下に出ると、背後をもう一つの足音が追ってくる。 「アタシが寿退職なんかしねー方が嬉しいでしょ?土方さんも」 「へーへー、そうね」 「んで、未来っていつ?明日ですかィ?明日副長交代?」 「…おめーのその問答無用なポジティブさが羨ましいよ。俺ァ」 武州にいた頃と同じ、ガキのまま成長しちまったコイツの気持ちがいつ変わるのかなんて、計りようも無い。 惚れた男ができれば女は変わる。そうあるべきだとも思う。 けれど。今は。 「山崎の報告待ってんのなんか、かったりーや。奴らふんじばりに行っちまいましょーや、土方さん」 「行っちまいてーなァ、ほんと。寝覚めにスカッとすんだけどなァ」 まだ、このままで。 そう、本当は。 怯えているのは、自分の方。 だからこそ形無しなのだ、きっと自分は。 迷い無く『ずっと』なんて言えちまうコイツに、所詮、白旗を揚げる以外に無いのだ。 きっと、これからも。 |