霞の帳にけぶる夜の街は、冷ややかに、そして静やかに。湿る地面に影を落として、ただ、そこに佇む。 空に散る細かな滴は体温を奪い視界を遮るが、それは身を潜めて動く者にとってありがたい限り。 そう、自分たちにとっても。 路地裏で朽ちかけた長屋の軒下から、通り向こうの小さな宿屋を覗き込んだ。 ここから見える正面玄関はピタリと閉ざされたまま。反対側で様子を見ているはずの永倉たちから何の連絡も無いところを見ると、裏の勝手口にも未だ出入りは無いのだろう。 2階の一室からは障子窓越しにぼんやりと橙色の灯りが透けてはいるものの、中にいるだろう者の影が揺れる様も見受けられない。 こいつァ当分、動きそうにねェな。 視線だけはそのままに、ポケットから取り出した湿気たタバコにどうにか火を付け、深く吸い込んだ。 |
くしゅり。すぐ隣でつぶれたような声がして振り返る。 「チンケなくしゃみだな、オイ」 「くしゃみにまでダメ出しされる覚えはねぇやィ」 ぐずぐずと鼻をすする本日の張り込みの相棒は、水気を孕んで額に張り付く前髪を鬱陶しそうに人差し指で払った。 「まるで動きやがらねーじゃねーですか、やっこさん」 「どーしたよ、根負けか?沖田隊長」 わざとらしく役職付きで名前を呼んでやると、予想通りムッとした表情に変わった沖田は、「全っ然」と腕を組みながら宿屋の方向を睨み付ける。 「ま、山崎の情報によりゃ今夜あそこで取り引きが予定されてんのは間違いねーんだ。じきに何かしら動き見せるだろーよ」 「間違いねーんなら突入しちまいましょーや、土方さん」 「バカ言うな。今あそこにいる小物共になんぞ興味はねェ。現場抑えて取り引き相手引きずり出さねーと意味ねんだよ」 締め上げて吐かせちまやァいーじゃねーですか。 沖田は尚も不満げにそんな事を愚痴りながら、愛用の武器である特別製の傘の柄を待ち切れないように右手で弾いている。 たしかに先手必勝で乗り込み、片っ端から討ち取ってしまう方が手っ取り早い場合もある。 だが、今回は待つべき時。相手が動いてボロを出すのを待つ。それが一番早くカタを着ける方法だと判断している。まぁ、そもそもコイツの性格上張り込みなんていう地味で忍耐の必要な任務が向いていない事は十分過ぎるほどわかっている。その代わり、敵陣を真っ向から斬り開く先頭を任せるならコイツ以上の適役はいない。それも十分わかっているからこの場を共にしている。脇目を振らず、立ち止まる事無く、ただまっすぐに突っ走る。そんなコイツだからこそ、その後に続く隊も迷わず進んで行けるのだ。 その斬り込み隊長は、愚痴を漏らすのをやめた代わりに再びくしゅりぐずぐず、とチンケな音を立てて鼻を鳴らしている。 この天気に長々と立ちんぼじゃ無理もない。体を動かして温まれるようになるまでは、まだ幾らか時間が掛かりそうだ。隊服の上衣を脱いで、細い肩の上に無造作に投げた。湿ってはいるが、無いよりもマシだろう。 沖田はしばし肩に乗った自分のものではない隊服と、その持ち主を交互に眺め。そして、訝しげに顔をしかめた。 「何でィ、コレ」 「クソ忙しいのに風邪でもひかれちゃあメーワクなんだよ。体調崩さねーよう自己管理すんのもプロってもんだろ」 「…」 仕事だとかプロだとか。そんな言葉には意外と従うコイツの沈黙を諦め大半の納得と解釈し、宿屋へと視線を戻す。 しかし、その途端、着慣れた隊服は肩に被せ返された。 「…オイ」 天邪鬼め。そう言ってやりたくなり振り返る、と。 沖田は無言のまま、細い体を自分が羽織る隊服の中へと潜り込ませてきた。 二人羽織かとツッコミたくなるような状態で人の胸元から顔を出すと、当たり前のようにすました顔で元通り宿屋を見つめる。 「…何してんの。お前」 「体調崩していざって時にメーワクなのはアンタも一緒だろ。これならお互いあったけーし平和的じゃねーですか」 「仕事中に部下にセクハラしてる上司にしか見えねんじゃねーの、俺」 「いやっダメ、やめて下さい副長…!」 「いやいや、やめて。シャレになんねーから。通報されっから。俺お巡りさんなのに」 結局、そんなふざけたやり取りをしながらも一向に人の懐から出ようとしないコイツに、諦めの溜息をつく羽目になるのは自分の方。 肩に乗った隊服にもう一度袖を通し直す。咥えていたまだ長い煙草を消すべく内ポケットを探ろうとすると、それより先にゴソゴソと動き出した沖田が、隊服の中から携帯灰皿を開いて差し出してくる。「内ポケットは担当しやすぜ」。彼女の言葉に、「…そりゃどーも」とだけ返し、そこに煙草を押し付けた。 両手でしっかりと隊服の前を握り、冷たい空気から身を隠すその息が、胸元から微かに白く上る。 頬を掠める空気は相変わらずに冷たい。 けれど。 懐の体温が、濡れた夜を暖める。 例えば今。より深く熱を求めて、この空の腕を閉じたなら。物憂げな雨を含んで重くなったこの体も少しは軽くなるもんなのか。 けれど、一度閉じ込めてしまえば、それはきっとどうしようもなく温かくて、離しがたくて。 走り出すべき時がやって来ても、腕を開く事が出来なくなるではないか、と。ふと、そんな思いがよぎり、自嘲で口元が歪んだ。 思うがまま突っ走る事を許した斬り込み隊長の足を、あろうことかこの俺が阻んでどーするよ。 そして結局、空いた腕の行き着く先は慣れた両ポケットの中。 「随分大人しいけど寒ィんですかィ?」 胸元で首を反らして沖田がこちらを見上げている。 まったく。そもそも誰のせいで、こんな余計な例え話を考える羽目になったと思っている。 頭に浮かんだ言葉は、迷わず飲み込む事とする。 「あったけーよ、十分」 「そいつァ良かった」 「まったくだ」 「土方さん、風邪ひくと長ェからね。ウゼーくらい咳とれねーからね」 「るせーな、繊細なんだよ。てめぇはすぐに鼻づまりで瀬川●子みてーな声になんじゃねーか」 「んじゃ今度ご要望にお答えして『命くれ●い』熱唱してあげまさァ。枕元で」 「やめてくんない。寝覚め悪そうだから」 車も人も少ない通りの景色は、いつまでたっても変わらない静止画を眺めているようだった。 表面上は昼夜を問わず派手でうるさいこの町も、一歩裏に入ればこんなものだ。 こんな景色の中、唯一側にある血の通う気配に救われているような気さえしてしまうのも、きっと、雨のせい。 「土方さん」 「はいよ」 「動かねーなァ、奴ら」 「そうねェ」 「土方さん」 「はいよ」 「張り込みってタリーねェ」 「そうねェ」 「土方さん」 「…あんだよ」 「でも、あったけーし。さっきまでよりゃ悪かないね?」 「…」 再び、懐のぬくもりがこちらを見上げる。そして、笑う。イタズラが成功した子どものように生意気で楽しげなツラで。 曲がりなりにも野郎の懐で。んな台詞を、んな顔で。 何を考えて言ってんのかね、コイツは。 返事を待つように俺を見上げ続けるその目に降参して。 「…そうねェ」 遅れながらも認めた。 そう。悪かない。 これでいい。 この腕を閉じて、突っ走って行こうとするその足を止める気なんぞ、さらさら無い。 刀を握るためのこの手を、他の何かで埋めちまう日なんぞ、自分には来ない。 だが、冷えた身を温めるための懐くらいなら。 空けといてやるのも悪かない。 そして一休みしたら、また、コイツはここから走っていくだろう。バカみてぇにひたすらに。真っ向から。 「…ま、そーは言っても、そろそろ左右の安全確認くらいは覚えてもらわねーと困るわな」 「ハイ?」 「いや、なんでもねーよ」 気にすんな、おめーは。 付け加えると、不服そうに口を尖らせる。「ガキみてーに膨れてんじゃねーよ」と、その突き出た唇をつまんでやると案の定、肘鉄を一発食らわされた。 一仕事前に味方咳き込ませてどーするよ、オイ。 霧にけぶる外灯の微かな灯りが夜に滲む。 あとは、ただ静かに。雫に溶けて、夜に身を紛らせ。僅かな熱を分け合いながら。 もうじき訪れる、走り出すその時のために。 |