夏が行き過ぎた町はまるで祭りのあとのように、ほんの少しの寂しさと心地良い静けさを道端に落として。輪郭までくっきりと映し出す太陽が柔らかくなる頃、辺りは色を変えていく。 じきにやって来る凍える季節に驚かないように、少しずつ、少しずつ。暖かな色に立ち止まったりしながら、一歩一歩。そう語りかけてくるかのように。 秋は、いつだって優しい。こんなにも。 公園を抜ける木立の中の細い遊歩道。 その脇でひっそりと溶け込むように木製のベンチが佇んでいる。 この場所を見つけたのはつい最近。良く晴れた真昼の太陽も木々の葉に透かして穏やかに下ろしてくれるこの場所を一目見て気に入って。翌日、仕事の休憩時間に訪れてみると、そこには既に彼が座っていた。お前が見つけるよりずっと前からここはうるせーガキ共に邪魔されねェ俺の読書場所なの。そう言って、おなじみの分厚い週刊雑誌を揺らして見せたっけ。 そして今日も同じ。私がこの場所に来る昼下がりには、古びて微かに歪んだ背もたれに腕をかけ、組んだ足の上に乗せた雑誌をぼんやりと目で追う彼がいる。銀色の髪が、乾いた葉音と共に揺れた。 その右隣に空いたスペースに腰を下ろす。ぎしりと軋むベンチ。そんな事など気にも留めない様子で彼はページを一枚かさり、とめくる。頭上からは小さく高いさえずりが二つ。あの声はなんて鳥?見上げてみても姿は見えない。代わりに見えた木々の隙間を縫う夏よりも透明な青は、遠く平らで目を奪われた。左手の杖を右側に立てかけて、ゆっくりと背もたれに背を預ける。 「もうすっかり空が高いのねぇ」 「あー?秋だからねェ」 「あ、うろこ雲」 「秋だからねェ」 「もこもこで定春君みたい」 「秋だからねェ」 依然手元の雑誌から目を離そうとしない彼から帰ってくる返答は上の空。 けれどその一定のトーンは、時間の流れをゆるやかにしてゆく。 「その号、昨日も一昨日も読んでいたのにねぇ」 「…秋だからねェ」 その実に真剣そうな読書姿勢に横槍を入れてみた。返ってきた言葉は同じ。けれど一瞬空いた間は、心底上の空なわけではない何よりの証拠。聞いていないようでちゃんと聞いている。この人は、いつもこう。おかしくて少し笑いそうになるのを我慢した。 再び見上げた木立が緩い風にざわめく。ほんの一瞬、暖かな木漏れ日が遮られて、首筋を駆け抜けた涼風にくしゃみが出た。 隣で何も言わない彼が、ふとページから離した手を懐へ。そこから取り出したものを、あくまで目線は紙の中で戦うヒーローたちに貼り付けたまま、ベンチの上に置く。 それはどこかの自動販売機で買ったのだろう缶の緑茶。触れてみると、まだ熱い。「ありがとう」。両手に缶を収めてそう言うと、彼は黙ったまま左脇のピンク色の缶を持ち上げ口を付ける。いつも通りの、冷たい飲み物。 「秋なのにねぇ」 その横顔を覗き込みながら言ってみると、 「バカヤロー。いちご牛乳はオールシーズン対応型の器のでけェ飲料なんだよ」 と、至極当然と言わんばかりに返された。 たしかに彼の家には、冬でも冷蔵庫にいちご牛乳1リットルパックが常備されている。 「これからの季節はホットのいちご牛乳の方が合うんじゃないかしら」 「別にホットでも嫌いじゃねんだけどよォ、なんつーか負けた気がすんだよな」 「何に?」 「いや、秋に?」 秋に負けるってなんだろう。そんな事を考えながら手の中のお茶をすする。ほんのりした渋みが体の芯を温める。 そしてまたページをかさり、めくる音。隣の読書家との間に、小さな小さな風が一陣。 見上げた真上の木。夏の緑からくすみ始めたイチョウの葉は、もうすぐ鮮やかに空を染める気配がしている。 「もうすぐ、このイチョウも色付きそうねぇ」 「あー?そうねェ」 「銀時はずうっと白いままなのにねぇ」 「そうねェ…って、どーいう意味だコラ。俺ァカメレオンかコノヤロー。背景色にフィットしてなんかイイ感じに敵をやり過ごすような臆病な真似は俺ァしねーんだよ。男ァいつでも真っ向勝負なんだよ」 一続きにそれだけ述べて、またいちご牛乳を一口。 どーいう意味でもない、そのままの意味で言ったまで。ふと、思い出してしまったから。彼と出会ったのは秋だった事を。 今でもよく憶えているのは、色。茜や山吹に色付いていく木々に染められる景色の中、ぽかりと穴を開けたように浮かんだ白装束と銀色の髪。もっとも、どちらもところどころに血の朱が混じってはいたけれど、それでも尚、彼は白いままだった。いつでも、誰にも、どんなものにも染まらないのだろうその色は、まるで強い光を見た後のようにまぶたの裏に残って、彼が立ち去った後もいつまでも消えなかった。 不意に膝の愛読書を閉じた彼がよっこらせと立ち上がり、過去から今へと引き戻される。さぁて帰るとすっかね。そう言って歩き出す彼の背を眺めながら自分も立ち上がった。そろそろ、仕事に戻る時間。 いちご牛乳の缶が、ベンチ脇のゴミかごに放られる。その後に、お茶の缶を同じ場所へ。金属のぶつかる硬い音が続けて響いた。 ふと先に立つ彼が、振り返らぬまま左手を軽く後に差し出してきた。腕を差し出されることはあったけれど、手を差し出されるのは久しぶりかもしれない。握ったその掌は、ついさっきまで持っていた飲み物のせいで、冷たくひんやりとしていた。対してあたたかい飲み物のせいで熱を上げている自分の手が、その冷たさを温めていく。 「…秋だからねェ」 「秋だものねぇ」 何も言っていないのに。まるで理由付けをするかのように彼が発した台詞に、おかしくて何故かくすぐったいような気持ちで答える。いつもよりも少しだけ、ゆったりとした歩幅。 ふと、歩きながら、何とはなしに後を振り返った。空になったベンチに、ひらりと一枚、気の早いイチョウが舞い降りる。もうすぐこの道も、秋に染まる。二人で踏む落ち葉は、どんな音をたてるのだろう。四人と一匹で踏んだら、きっと、さぞかし騒がしくて、賑やかで。寒さを感じる暇など微塵も無くて。 辿る道の後と先に思いを馳せる、秋のはじめの晴空の下。 繋いだ手の温度は、いつのまにか同じ温度になっていた。 秋だから |