あの電話の向こう
『坂田銀八君、坂田銀八君。いましたら至急、教務課まで…』 学内放送で自分の名前が呼び出されているのを聞いたのは、昼時の事。 ちょうど買ってきたばかりのいちご牛乳にストローを差した時だった。 立ち上がりもせずストローを咥えると、「坂田ァ、呼ばれてんぞ」と周囲から掛かる声。「呼ばれてんな」とだけ答えて、傍らのチョココロネの袋を開く。 「いーのかよ。行かなくて」 「俺ァ今大事なトコなんだよ。チョココロネはこう慎重にパンを押してチョコを全体に行き渡らせねェと、尻尾の方に食い進んだ時チョコの無ェ素パンを食う羽目になっちまうんだよ。だからって慌てて押したら前の方からチョコはみだしてきて大変な事になんだよ」 「いや、知らねーよ。つか、坂田お前、何かしたの?」 「それこそ知らねーよ。いんだよ。どーせロクな事じゃねーだろ」 そうして一度はチョココロネといちご牛乳を優先した、ものの。 その日その一度きりだったため安心していた呼び出しは、翌日に持ち越された。 『坂田銀八君、坂田銀八君。お電話が来ていますので、大至急、教務課まで…』 電話? わざわざ大学を通じてかかってくる電話に心当たりなどあるはずもない。 だからと言って2度も呼び出されたんじゃ、さすがに無視するわけにもいかず。 仕方無しに、右手のいちご牛乳を啜りながら教務課へ行くと、見慣れた事務のオッサンが俺を見るなり「遅い!」と怒鳴ってきた。 「少しは小走りするとか、そういう気持ちは無いの?お前。いつもながらダラダラと」 「おっちゃん、俺の辞書には『小走り』なんつー曖昧な単語は無ェの。人間、『休む』か『全力疾走』のどっちがで十分だろ」 「見たことないけどな、全力疾走も。ほら、さっさと出てやれ。電話だ」 差し出された白い受話器を手に取る。 つーか保留音くらい押せよ、おっちゃん。筒抜けじゃねーか、俺が小走りしてねーの。 「は〜い、どちらさん?」 『…大学でもオンオフ切り替えスイッチは常にオフなんですね、銀八先生』 「…」 聞き覚えのある、声だった。呆れたようなそのトーンも、少しばかり冷めた言い回しも。 返事を忘れてつい黙ると、受話器の向こうのその声は一気に呆れから不安を隠せないトーンへと変わる。 『あの…、先生の教育実習の時にお世話になりました宇都ですけど…覚えてます?』 「え〜と…宇都君、宇都君…ああ、ハイハイ、アレね。ちょっと太めの宇都君ね」 『いえ、先生。多分それ、木村君の事なんじゃないかと…』 「ああ、じゃああっちか。獣医目指してる」 『横山さんです、それ』 「学校の天下獲るっつって日々ケンカに明け暮れてた手の付けられねェワルの…」 『いません、そんなクラスメイト。…ていうか先生、もしかして僕の事だけ忘れてます?』 「いやいや、んなことねーよ?アレだろ?ウド君だろ?バッチリだって。まかしとけって」 『…宇都ですってば』 受話器から小さな溜息が聞こえた。どうやら諦めの溜息らしい。 「で、何だよ。俺もう先生じゃねーぞ」 『うちの高校、来週学校祭なんですけど…。それで、もし暇なら銀八先生、遊びに来ないかなってクラスのみんなが』 「は?学祭?学祭って言った?天野君」 『宇都です』 「ワリィけど俺、学祭嫌いなんだよね」 何一つオブラートに包む事無く正直な気持ちを述べると、一瞬黙った電話の向こうから、微かに漏れる笑いが聞こえた。 『ですよね』 「何、『ですよね』って」 『銀八先生はウキウキ学祭に参加する人には見えないですもんね、たしかに』 わかりました。呼び出したりしてすいませんでした。 彼はあっさりとそう引き下がった。 それは、誘いを断られたとは思えない程、何だか満足げな声で。 気持ちワリーな、オイ。断ったこっちが怖くなんじゃねーか、逆に。 『それじゃあ、すいませんでした、突然。失礼しま…』 「宇都っちィ」 『…』 呼び掛けに返ってきたのは、沈黙。「ちゃんと覚えてんじゃねーか!」とか、「何言われんだろ」とか、「ていうか宇都っちはやめろよ」とか。色んなものが混じってるだろう事がにじみ出る、わかりやすい沈黙。 「受験がんばれよ〜」 たった一言。それはまるで社交辞令のような決まり文句。 数秒引き続いた静けさの後、返ってきたのは、やっぱりたった一言。 『採用試験がんばれよ〜』 「…」 わざとらしく間延びさせた言い方は、本人としても真似されていると認識せざるを得ない。 そもそも。 俺は何度もコイツに言ったはずなのだ。 教師になるとは決めていない。採用試験を受けるなんて一言も言っていない。 けれど、思ってしまった。 ふと今、思ってしまった。 ああ、悪かねェな、と。 何がっつーんじゃねェけど。 教師っつーのも、悪かねェか。 不思議と口元が緩んだ。 「ま、柄じゃねェけど、頑張るしかねーわなァ」 やけに嬉しそうな声が、『ハイ』と答えた。 やるしかない。 めんどくせーし、タリーし、やってらんねーし。 でも、その後は、きっと悪くねェはずだっつーことは、コイツらのお陰で知ったから。 やるしかない。 「電話、なんだって?教育実習の時のコなんだろ?」 受話器を置いた俺に、好奇心を滲ませた表情で尋ねてくるおっちゃん。 「あ〜?なんか学祭遊びに来いってよ。行かねェけど」 「ええ?もったいねーな。俺代わりに行こうかな」 「やめとけよ、おっちゃん。目的わかりやす過ぎだろ」 「…お前だって教師になったら絶対女子高生に手ェ出すだろ」 「出さねーよ俺は。んなハイリスクなこたしねェ。俺ァ体育の授業でブルマが見れりゃあソレで満足だから」 「今時あるかね。ブルマの高校」 「おっちゃん探してくれや。学生の就職先の相談を受けんのも教務課の仕事だろ?そうじゃねーと俺、イマイチ採用試験へのモチベーションが上がらねーよ」 「…ブルマかぁ…いいな。探してみるかな」 事務室の窓から、空を見る。 青く、どこまでも広い空に、何故か狭い教室で下ばかり向いていた奴らの事を思い出す。 あの頃の奴らなら、俺以上に言いそうなもんだ。「学祭なんてくだらない」「受験までの時間がもったいない」と。 それが「遊びに来い」とはね。 何となく、おかしくて、笑いが漏れた。 何が正解なのかなんざ、わかりゃしねーが。 まぁ、それでいんじゃね? 『やっぱり楽しいです、学校』 あのメガネ拭きのメッセージが、すべてなんだろーから。 俺が様子なんて見に行くまでもねーよ。 それで、いーんじゃねェの。 な、宇都っち。 |